20210517-1.jpg
 

 

5月3日、憲法記念日。毎年、判を押したかのように自民党は憲法改正の必要性を説き、護憲派は憲法改悪の危機感を煽り立てる。今や、この国の風物詩と云っても良い”お決まり”のやり取りが、今年も相も変わらず繰り返されていました。ほんの少しだけ、事態が動いたのは今月11日、衆議院本会議で可決された国民投票法改正案くらいのものでしょう。

 

ここ数年、こうした”出来レース”を見させられていて思うのは改憲派、護憲派共に日本国憲法の本質を理解していない、その偉大さ、秘められたパワーを軽視しているといった点です。「現行憲法の自主的改正」を結党以来の党是とする自民党が、改憲に固執するのはわかります。しかしながら昨今、「自衛隊の明記」や「緊急事態対応」などを改正の条文”イメージ”として掲げているのが頂けない(同党公式HPより)。そこに確固たる信念が感じられない。「何となくこんなイメージで」大切な憲法をいじられては堪りません。もしも私が真っ当な保守派であれば、「そんな不得要領なことを云っているからダメなんだ。憲法とは何か。ギッチリ一から勉強して出直して来い。話はそれからだ!」と、一喝したくもなるでしょう。

 

なぜか憲法学者も指摘しませんが、とかにもかくにも幾つもの条文を十把一絡げに改正しようといった姿勢に、憲法に対する尊崇の念、理解度の低さが如実に表れています。世界広しと云えども、憲法を丸ごと改正するなどといった”異常事態”は、国家体制の全面的な変更もしくは王政の崩壊か軍事クーデターしか前例はありません。

米国を例に取れば、憲法制定から現在に至るまで連邦政府で発議された憲法修正案は1,100件にも上っていますが、その殆どは連邦議会の委員会段階で廃案とされ、可決された修正案は33。州議会の批准を経て発効したものは27に過ぎません(2019年現在)。戦後は 6回修正されていますが、そのうち 4回は統治機構に関する条文で、2回は選挙権にかかわる例えば第22修正「大統領の3選禁止 (51年2月27日)」や第26修正「選挙権年齢の満18歳への引き下げ」といった内容でした。このように、憲法改正というものは特定の条文について個別に、何年も丁寧に議論を重ねた上で、賛否を問う性格のものです。それだけの重みを持っている。憲法典を甘くみてはいけません。

 

そもそも、これほどまでに憲法論議がこじれた原因は、国民の政治不信に他なりません。与党が重ねに重ねた失政の数々により国民の政治離れが顕著となり、結果、誰もお上の云うことなど信じなくなってしまった。こうした長年に及ぶ不徳を真摯に反省し、憲政の常道に立ち返り、基本から立て直しを図らなければ憲法改正も何もあったものではありません。

憲法は、国家統治の根本規範です。為政者の暴走を妨げるために明文化された人間の叡知の結晶です。そんじょそこらのあんちゃん、ねえちゃん議員が変えたい、と喚いたところで問屋は卸してくれない(幸いなことにも憲法改正のハードルは、政治屋さんが考えるほど低くはありません)。好い加減、現実を直視してみてはいかがでしょうか。「周辺事態の変化」などといった幼稚な理由を持ち出すものだから、同盟国の米国も苦笑いしていますよ。

 

  一方、護憲派も護憲派で全く進歩の跡が見られない。半世紀以上にもわたり「憲法は、一字一句変えてはならない」の一本槍。長らく思考停止状態に陥っている。政治不信がその根底にあるとは云え、まるで中学生のような頑迷さです。そのため憲法の内容・条文ではなく、護憲派の姿勢そのものが時代から取り残され、若い世代には疎んじられている。実際、Z世代を始めとする若年層の右傾化の一因は、こうした革新派の”保守化”、同じ繰り言ばかりの”老害”によって生じていると私は踏んでいます。

 

法律とは異なり、国家の基本理念を謳った憲法は、時代の変化によって手直しされるべき筋合いのものではありません。しかしながら腫れものに触るように箪笥の奥に仕舞っておくアンタッチャブルな存在でもありません。オープンな議論を通じてより良き形へと昇華して行くべき国家と国民の”契約”です。

事実、日本国憲法の叩き台ともなった『憲法草案要綱』を起草した憲法研究会のメンバーであり戦後、社会党衆議院議員を三期にわたり務め、文部大臣を経て1950年には初代広島大学学長に収まった森戸辰男も、『マッカーサー草案』を審議すべく設置された第90回帝国議会憲法改正特別委員会および衆議院帝国憲法改正案委員小委員会の委員として新憲法制定に参画した際、

「今後10年以内に国民会議を開き、制定会議を開いて憲法は新たに作り直すべきだ」と、主張しています。日本国憲法の生みの親たちも、国民の総意によって改正される箇所は生じて然るべきことを自覚していたことは明らかです。

 

   私自身は、日本国憲法を改正する意義および正当な理由はまったく見出すことが出来ません。寧ろ、昨年9月11日のコラム『日本国憲法に勝るコンテンツはない』で綴ったように、混迷を極める現代であるからこそ、”平和憲法”と称されるこの普遍的な憲法典を世界に広く知らしめ、次世代のデファクト・スタンダードとすべく積極的に押し進めることこそ、我々日本人の責務であると考えます。取るに足らない諍いは後回しにして「守り」から「攻め」の姿勢へ、世界に一歩、踏み出してみませんか。

 

  日本国憲法が時代遅れ、と嘯く輩ほど時代遅れな人間はいません。愚にも付かない改正を施せば、凡百の憲法と何ら変わらぬ条文に成り下がります。世界中を巻き込んだパンデミックを経て、人間社会の有り様を根底から見直す機運が高まりつつあります。資本主義・社会主義体制の筋肉疲労による政情不安や経済システムの崩壊。世界は新たな”混沌”へと足を踏み入れています。そうした時代の道標ともなり得るのが、日本国憲法です。

この壮大なる時代の過渡期、パラダイムシフトにおいて、日本国憲法が掲げる崇高な理念に気づき、実践しようと決意する国々は必ず現れます。いいですか。この憲法は死文ではありません。しっかと呼吸しています。我々日本人が、人類史において初めて世界に貢献出来るチャンス、前文で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と宣した理想の実現を目の前にして、みすみす逃したのでは、ご先祖様のみならず未来の日本人に対しても申し訳が立ちません。違いますか? 改憲派、護憲派の政治家の皆さん。

 

このページのトピック