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ある編集者に、「弓狩さんの論考は刺激的ですね」と云われました。聞けば、その他あまたのSNSを読んでいても、特定の時事問題を扱うにせよ、政府を批判または賞賛するにせよ、ワンパターン化していてまったく面白味がない、というわけです。大体、数行読んだだけで云いたいことは「あ、あのパターンね」とわかってしまう。どこにも発見がない。その点、私の切り口は斜め上を行っていると。

 

必ずしも褒め言葉ではないでしょうが、思い当たる節はあります。皆と違うことをやることに生き甲斐を感じるほどひねくれた性格ではないつもりですが、常に新たな自分なりの切り口は探している。なぜならば、それがなければ私が書く意味などないからです。他人の文章を読み、自分と同じ意見であれば改めて書く必要を感じない。「誰々と同意見です」と宣したところで、読者にとっては「はぁ、そうですか」てなもんでしょう。幼い頃から同調圧力といったものが、生理的に苦手だったこともありますが、新たな視点を提供することが、作家としての私の使命だと思っているからです。

私にとってSNSとは、そのような知の探求・実験の場であるとも云えます。プロである以上、作品や寄稿文を執筆する際には、対象読者を思い浮かべながら、読者が読みやすい、わかりやすい内容、文体を心掛けます。一方SNSでは、そういった枠組みに収まり切らないテーマや発想を自由に綴るよう思考回路を切り替えています。

 

そう云えば、同じ類のことを広島でも耳にした覚えがあります。大学生が「平和学習ってあるじゃないですか。広島だと9年間もやるわけですよ。でも、はっきり云って意味がない。毎年、同じことの繰り返しなので、生徒は『こう書けば評価される』といったテンプレートを持っているわけです。教師も教師で、それをわかった上で『はい、よくできました』で、お仕舞いにする。あれって本当に平和学習になっているのかなと今になって思います。被爆者の方のお話を聞く貴重な機会もあったわけで、勿体ないことをしたな、といった思いはあります」と、話してくれました。

 

私が地元民ではないため、率直に話してくれたのでしょうが、マスメディアを含め、こうした言論のワンパターン化、異質なものを受け入れない傾向はつとに激しくなっているように感じます。必ずしも規制されている、自己規制しているというわけではなく、単に作り手の挑戦する意識、意欲が低下している。

ある事件を扱うにしても、「これはこうしてこのように批判しましょう」といったおざなりの起承転結が、暗黙の了解として存在する。それも半世紀も前に作られた明文化されていないマニュアルです。発信者も受け手もそれで良しとする。こうした風潮はSNSでも見受けられ、どれを読んでも目から鱗の発見に出会うことは極めて稀(文章力云々ではなく、目のつけどころ)。「個」が見事に埋没している。誰でもない「あなた」が、何を考えているのかが見えて来ない。それであれば「今日は鯵の南蛮漬けを作りました♪」といったささやかな日々の事実を読む方がよほど楽しい、と天邪鬼な私などは感じてしまいます。あ、やっぱりかなりひねくれていますね、この私。

 

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