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「対馬丸」に乗船し亡くなった学童たち(提供 対馬丸記念館)

 

今日は、沖縄県の「慰霊の日」。全国で同県のみが公休日と定めています。これは、沖縄戦没者慰霊奉賛会(現・沖縄県平和祈念財団)が1961年に、当時の琉球政府に対して「戦没者慰霊の日」を制定するよう陳情したことに端を発しています。同政府の行政主席であり慰霊奉賛会長でもあった大田政作氏は、その陳情書の中で「その期日を六月二十三日とすることは、沖縄防衛第三十二軍首脳の自決即ち、軍司令部の機能が崩壊及び全軍の組織ある防衛戦斗終止で玉砕の日に相当するからである」(原文ママ)と記しています。

大日本帝国陸軍軍人が自決した日を「慰霊の日」として定めたことには、いささかながら違和感を覚えますが、当時開かれた会議の速記録を繙けば、「アメリカが占領したというよりも日本側が完全にザ・エンドしたという日を求めるのが妥当かと思います。住民はそのときには勝利者の側ではないのです。日本の軍隊が消滅した日を探してその日とすべきじゃないですか」(原文ママ)といった発言も認められ、「終戦」か「敗戦」かといった議論に繋がる沖縄県民の心情に寄り添った判断があったことが窺えます。

 

当初は、第32軍司令官の牛島満中将(自決直前の20日付で大将に昇進)が22日午前4時半に切腹したという現地情報に基づき同日に定められていましたが(「住民の祝祭日に関する立法」1961年7月24日公布) その後、大本営の記録や沖縄戦当時第32軍の高級参謀(作戦担当)の任にあった八原博通氏(元・大佐)が「23日」と証言したため、その4年後に現行の23日に改められました(「住民の祝祭日に関する立法の一部を改正する立法」1965年4月21日公布)。

沖縄が日本に復帰した1972年には、日本の「国民の祝日に関する法律」(1948年に公布された通称「祝日法」) などが適用されたため一旦、「慰霊の日」を含む沖縄独自の休日は排除されましたが、74年に沖縄県が定めた「『慰霊の日』を定める条例」によって、再び公休日として復活するといった紆余曲折を経た「休日」でもあります。

 

沖縄戦の全戦没者数は20万656名と推定されています。内、一般県民は約9万4000名。同県出身者であるにも関わらず統計上は軍人・軍属 2万8228名の一部として数えられている防衛隊や学徒隊を加えると、軍人を上回る民間人が戦火の犠牲になったこととなります。

壮絶を極めた沖縄戦を辿るにあたり、どうしても忘れられない、忘れてはならないのが、ひめゆり学徒隊として知られる沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校から沖縄陸軍病院へ学徒動員された女生徒たち222名(内。136名が死亡)と、米潜水艦「ボーフィン」(SS/AGSS-287)の魚雷攻撃によって沈没した対馬丸に乗船し、尊い命を失った800名近くの疎開学童たちです。

 

昭和17年に撮影された沖縄県立第一高等女学校 2年甲組

 

ところが、沖縄戦を象徴するこれらふたつの悲劇を今に伝える「ひめゆり平和祈念資料館」(https://www.himeyuri.or.jp/JP/top.html)と「対馬丸記念館」(http://tsushimamaru.or.jp)が、新型コロナウイルスの影響による来場者の激減により今、存続の危機に直面しています。『沖縄タイムス』とヤフーの共同アンケート調査によると、全国75.5%の国民が、「慰霊の日」の存在さえ知らなかったと云います(「知っていた」と答えたのは僅か24.6%)。76年という時間が重くのしかかる中、両館共に歴史の語り部たらんと現在、寄付金を広く募っています(詳細は両館の公式HPをご覧下さい)。この「慰霊の日」をきっかけに、心ある人々の浄財が私たち、そして未来の日本人にとって大切なこれら施設の維持・運営に少しでも役立つことを願わずにはいられません。

 

ひめゆり平和祈念資料館

 

対馬丸記念館

 

私たちは、幸運なことにも「戦争」を知りません。76年にもわたり「平和」を享受して来ました。しかしながら、「戦争」を体験していないからと云って、「平和」の意味を理解しているとは限りません。まずは歴史から学ぶこと。そして大切な記憶を未来に伝える担い手となること。それが、私たち「平和の申し子」の責務であり、存在価値でもあります。耳を澄ませば聞こえて来ます。海を渡って、あの潮風を含んだ島唄が。合掌。

 

今年4月にリニューアルオープンしたひめゆり平和祈念資料館の様子を紹介した『沖縄新報』の映像。

『海よ。いのちよ』(公開版)。11分の本編は対馬丸記念館公式HP(tsushimamaru.or.jp)で視聴出来ます。

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