20210614-1.jpg
 

 

   東京2020オリンピック競技大会の開会式まで残すところあと39日、パラリンピック競技大会の開会式までは71日となりました。ご周知の通り、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、その開催の是非を問う声が国内では日増しに高まっています。各種アンケート調査では「開催中止」(延期を含む)を望む声が過半数を占め、元・日弁連会長の宇都宮健児氏が「人々の命と暮らしを守るために」中止を訴えたオンライン署名は現時点で42万4434筆を集めています(全人口の約 0.3%)。このようにネットというヴァーチャルな世界だけに目を向けていると、「開催反対派」があたかも国民の大勢を占めているかのような錯覚に陥ります。

 

未知の感染症に対する恐怖心と出口の見えない経済的困窮状態から来るストレス、そして何よりも現政権に対する不信感とが相まって、「こんな時期に、悠長にスポーツイベントを催すなんてとんでもない!」と叫びたくなる気持ちはわかります。私も、このタイミングで開催したところで来日する選手たちに十分な”おもてなし”は出来ない。また、インバウンド観光客の受け入れを断念したことで、オリンピックの重要な柱である国際交流が実現されないことを大変残念に思っています。

しかしながらこうした混沌の最中だからこそ、感情に振り回されることなく冷静に状況を把握し、是非を論じる必要があります。オリンピックやFIFAワールドカップ関連の取材を経験し(拙著『国旗・国歌・国民〜スタジアムの熱狂と沈黙』をご覧下さい)、国際オリンピック委員会(IOC)の実情も少なからず知る者として、この連載では数回に分けて、敢えて客観的な視点から現況分析を試みます。

 

まずもってこのオリンピック開催を巡る是非論によって、改めて思い知らされたのがネットによる情報拡散の速さ、凄まじさです。お陰様でいかにして”同調圧力”が形作られるかをリアルタイムで学ぶことが出来ました。新型コロナウイルスの感染者・死亡者数が右肩上がりで増加するに従い、昨夏辺りからオリンピック開催を不安視する声がネット上では目立ち始めます。やがて”有識者”が開催反対の論陣を張り始めると、これに呼応する形でネガティヴな意見が急増。続いてマスメディアが本国では知名度がゼロに等しい欧米の学者やタブロイド紙の記事を盛んに引用し、お家芸の”黒船”(外圧方式)で不安感を煽り始めました(云うまでもなく、いずれの媒体もケニア共和国やタジキスタン共和国といった小国のオリンピック委員会には取材しようともしません)。

遂には「人命か五輪か」といった論理学で云うところの誤った二分法(False Dilemma)があたかも正論であるかのように取り沙汰され、言葉を扱う人間にしてみればいかにも”安っぽい”「竹槍五輪」などといった言い回しを事もあろうにマスメディアが囃し立て、スポーツとは縁もゆかりもない芸能人までもがオリンピックの意義を滔々と語るまでになっています。

 

今や「オリンピック開催賛成♪」などと迂闊にも発言しようものなら”非国民”のレッテルを貼られかねません。勝ち馬に乗った時の日本人の勢い、集団心理には空恐ろしいものがあります。加えて”破壊”には喜々として加わるものの、誰ひとりとしてそれに替わる建設的なアイデアを出そうとはしない(中止によって生じる信用失墜や負債の解決策など)。云うだけ云って知らんぷり。なぜならば、そもそもオリンピック・ムーブメントに関する十分な知識や見識もなく、感情に任せて反対しているため、代案を講じるだけのロジックを持ち合わせていない。したり顔で「インパール五輪」などといった不遜な表現をする方もいますが、私は開催反対に付和雷同する世論に、寧ろ危機感を抱きます。こういった方々は一旦、新型コロナウイルスに終息の兆しが見え、民意が急速に開催賛成へと傾いた場合、どのような説明をなさるのでしょうか。

様々な分野の人々が持論を披瀝、展開し、自由に語り合うのは大切なことです。しかしながら、論じるからには少なくともオリンピック憲章ぐらいは熟読して頂かなければお話にならない。正確な情報と知識に基づかない”意見”は単なる井戸端会議の域を出ず、実りある議論には繋がりません(そうしたバランス重視のスタンスそのものが、”同調圧力製造装置”であるところのSNSにはそぐわないことも良くわかりました)。

 

何事も、基本を押さえていなければ議論は噛み合いません。この連載の第一回(今年2月8日)でも指摘したように、オリンピック競技大会の中止または延期の決定を下せるのは IOCのみです(これを「不平等条約だ!」と批判する方もいらっしゃいますが、こうしたビジネスモデルを必ずしも良しとはしないものの、取り立てて珍しいものではありません、その理由は追ってご説明して行きます)。また、オリンピックを開催する資格を有しているのは、オリンピック憲章の第1章「1 オリンピック・ムーブメントの構成と全般的な組織」の2項に記されているように日本政府ではなく、東京都でもなく日本オリンピック委員会(JOC)です。

野党議員やマスメディアは盛んに「中止したらいかがですか」と菅総理大臣に詰め寄りますが、彼が答弁をはぐらかすのはある意味、当然なことです。もちろん開催国や開催地の意向は大会運営に多大な影響を及ぼしますが、開催国のリーダーが公の場でひと度「中止すべき」と発言すれば、オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」の「5. オリンピック・ムーブメントにおけるスポーツ団体は、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、政治的に中立でなければならない」に抵触することとなります。国内で唯一、IOCに対して中止または延期を申し入れられるのは JOCであり、日本政府に開催の可否を質すのが筋違いであることは、同・憲章を一読していればわかることです。現政権を擁護するつもりはまったくありませんが、この点については筋が通っていると云わざるを得ません。オリンピック誘致以来、前・現政権にはこれとはまた異なった事案において失策や問題点が多々ありますが、政権批判とオリンピック開催の是非とは混同することなく、個別に考える必要があります。

 

東京オリンピック開催反対の主たる理由は、1) タイミング: 新型コロナウイルスの感染状況と 2)コスト: 膨大な大会開催費用、そして 3) ヴィジョン: オリンピック・ムーブメントの現代的意義、に集約されます。次回では、まず新型コロナウイルス禍における東京オリンピックを取り巻く現況について見て行きましょう。