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オリンピックにおけるアスリートの意思表示として最も有名なのはこの”事件”でしょう。第19回メキシコシティ大会(1968年)の男子200メートル走で、19秒83の世界記録で優勝した米国代表のトミー・スミス選手と3位に入ったジョン・カーロス選手は表彰台に上がると国歌が演奏されている間、視線を下げ黒い手袋をつけた握り拳を突き上げました。後に「ブラックパワー・サリュート」、アフリカ系米国人のパワーを示威する敬礼と称されたポーズです。IOCのアベリー・ブランデージ会長(当時)は、彼らの行為がオリンピック憲章に抵触すると断じ、米オリンピック委員会も彼らを代表チームから即日除名し、選手村からの退去を命じました(両選手は2019年11月1日、米コロラドスプリングズで開催された殿堂式典において「レジェンド」として殿堂入りし、半世紀余りの歳月を経て漸く、名誉回復することが出来ました)。

 

   今月23日に開幕した東京2020オリンピック競技大会において、私はひとつの”変化”に注目しています。国内はおろか海外メディアも未だ大きく取り上げてはいませんが後々、オリンピック・ムーブメントの有り様を根本から問うことになるであろう”小さな一歩”についてです。

 

   国際オリンピック委員会(IOC)傘下のアスリート委員会(AC)はスイス社会科学専門センター(FORS) と協同で、185の各国オリンピック委員会(NOC) に所属する3,500人以上の選手たちに対して2000年6月からアンケート調査を実施し、得られた分析結果を元に今年4月21日、IOCに勧告を行いました。IOC理事会が満場一致で承認したこの勧告は、オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」第5条と「アスリートの表現の自由」にかかる提言となっています。改めて同条を振り返ってみましょう。

「オリンピック・ムーブメントにおけるスポーツ団体は、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、政治的に中立でなければならない。スポーツ団体は自律の権利と義務を持つ。自律には競技規則を自由に定め管理すること、自身の組織の構成とガバナンスについて決定すること、外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、および良好なガバナンスの原則を確実に適用する責任がある」とあります。

   アスリートの表現の自由については、「アスリートの権利と責任宣言」(Athletes’ Rights and Responsibilities Declaration)の第11条に明記されており、2020年には記者会見やインタビューにおいてオリンピックに対する考えを表明することが許されました。今回の決定はこれを一歩進め、「多様性」と「調和」を重んじるべく、大会期間中であっても試合開始前や選手紹介時に限りデモンストレーションを容認する、といった内容となっています。云ってみれば、アスリートも”社会的存在”であることを認めた決定と見做すことが出来ます。

 

   至極当然のことと思われるかも知れませんが、これまでIOCは大会期間中、出場選手やNOCスタッフによる政治的、宗教的、社会的発言は一切禁じて来ました(このスタンスは、IOCよりも強大な影響力を持つ国際サッカー連盟[FIFA]においても同様です)。こう書くと、「それみたことか」とIOCの横暴振りを叩く輩が現れそうですが現実は、事ほど左様に単純ではありません。

こうした政治不介入を貫くオリンピック精神は、第11回ベルリン大会において(1936年) オリンピックがナチス・ドイツの宣撫工作に利用され、PR装置として機能したことに対する深い反省から生まれています。そのためIOCは中立性を保つため、為政者による政治的プロパガンダのみならず、この連載の ② (2月11日)で紹介したオーストラリア連邦の先住民族アボリジニのキャシー・フリーマン選手や、FIFAは「令和三年のフットボール」(6月9日)の香港における反政府デモ、「国歌と愛国心の狭間で」(5月31日)で綴ったミャンマー連邦共和国代表選手が示した抗議のポーズなど、人種差別撤廃や基本的人権を擁護するメッセージについても同様に適用して来ました。他方、今大会を例に取れば、軍事独裁政権下のミャンマーからも2名の選手の出場を受け入れています。

 

こうした基本ポリシーに対して「どこが”平和の祭典”なのだ!」と、短絡的な批判が浴びせられたことは、これまでにも幾度となくありました。しかしながらオリンピックは、あくまでも「スポーツ」を通じて「平和」を実現しようとするムーブメントであり、政治結社でも国連組織でさえありません。「オリンピズムの根本原則」の第2条には「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである」と記されています。そのためIOCは意図的に、自らの判断で「正義」の在処は示さない。建前上は政治色を一切、排除して来わけです。私は、こうしたある意味、現実から遊離した理想主義に徹し、政治的、宗教的中立性を保とうとする姿勢には一定の評価を与えています。なぜならば、不戦の決意を宣した日本国憲法にも一脈通じる平和思想がバックボーンに流れているからに他なりません。

とは云え、この理想主義は国際環境や社会情勢の変化と共に、批判の矢面に立たされています。選手の政治的発言やパフォーマンスを禁じることは、基本的人権を蔑ろにする、というわけです。確かにアスリートとは云えども、様々な思想や信仰、社会的バックボーンを有した一個人であるため、表現の自由を過度に規制することには問題があります。よって今大会においてIOCは、思潮の変化を制限付きで受け入れたこととなります(開閉会式や表彰式、試合中、選手村では引き続きこうした行為は禁止され、処罰の対象となります)。

 

こうしたIOCの規制緩和を踏まえて早速、英国の女子サッカー代表チームが21日に札幌ドームで開催された対チリ共和国代表戦で、試合開始前にピッチ上で片膝をつき人種差別に対する抗議の意志を表明。チリ、米国、そして日本代表チームもこれに賛同し、同じ行為に及びました。

この片膝をつくといったポーズは、米NFLのサンフランシスコ49ersのクォーターバックで、2012年に同チームが18年振りのスーパーボール出場を果たした際の立役者であったコリン・キャパニック選手が、2016年8月26日にカリフォルニア州サンタ・クララで行われたプレシーズンマッチで、国歌演奏時に起立を拒否したことに端を発しています。キャパニック選手は、同年7月5日未明にルイジアナ州バトンルージュで、アフリカ系米国人のアルトン・スターリング氏が警官に取り押さえられ、至近距離から射殺されるといった事件に怒りを覚え、「アフリカ系米国人や有色人種に対する差別がまかり通る国に敬意は払えない」と、その動機を語っています。その後、NFLのみならずNBLやMLBでも国歌斉唱時に片膝をつく行為が多発。人種や思想、宗教の違いは、共に力を合わせて戦うチームメイトにとって、少なくともフィールド上においては、何ら意味を為さないことを彼らは一番良く知っています。

 

今大会において、決勝戦が集中する後半に差し掛かると、私は表彰式においても選手自らが何らかの政治的意志表示を行う”事件”が起こる可能性が極めて高いと踏んでいます。その際、IOCはどのような裁定を下し、処分するのか。さらなる「分断」を招く火種ともなり得る”非常事態”に際して、開催国であるこの国の国民はどのような反応を示すのか。「表現の自由」を錦の御旗の如く、無闇矢鱈に振りかざすのではなく、個々の事案を冷静に精査し、成熟した判断を行う必要があります。感情に駆られたナイーブな言動は結果的に、私たちが辛うじて有している「スポーツ」を通じて世界平和を実現しようとする貴重なコンテンツを毀損し、手放すことにも繋がりかねません。「破壊」と「改革」とは、似て非なるものです。こうした局面にこそ、我が国の”民度”が問われることとなるでしょう。