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   東京2020オリンピック競技大会は早くも後半戦に入り、巷は日本人選手のメダルラッシュで沸き立っています。しかしながら私は、いくら日の丸を背負った選手が大活躍しようが、感動的な試合が展開されようとも、残念ながら今大会は我々日本人にとって、「成功」であったとは云い難いと考えています(国際社会の反応とは真逆です)。敢えて”過去形”としたのは、開幕前にはすでに結論が出ていたからに他なりません。

 

最大の原因は、新型コロナウイルスの感染拡大により、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会(組織委員会)が今年3月20日に、海外在住の観客約100万人の受け入れを断念したことにあります。国内への流入危機が高まりつつあったデルタ株を水際で防ぎ、パンデミックを押さえ込み、人命を守るため、これは極めて賢明な選択でした。

一方、オリンピックは、云うまでもなくスポーツの祭典ですが、実は開催に伴う国際交流が、その”効用”の大半を占めています。単に、東京都が2017年4月に算出した約32兆円の経済波及効果(生産誘発額)を指しているわけではありません。様々な国からやって来た観光客を含む数100万人もの人々が、全国各地で市井の庶民と触れあい、友人関係を築き、または恋に落ち、我が国の文化、歴史、伝統を知る。と同時に、我々も世界の広さ、深さを実感出来る”プライスレス”な機会。これこそが、この世界最大規模のスポーツイベントの本質なのです(ここにはアスリート人口の増加や障がい者スポーツの振興、外国人留学生の増加なども含まれます)。

加えて、各国代表チームが全国各地で事前合宿を行う「ホストタウン」に登録した528の自治体及び184の受け入れ相手国・地域の内(今年4月27日段階)、約半数が新型コロナウイルスによる安全面の懸念から、直前になって中止または規模縮小に踏み切らざるを得ませんでした。何年もかけて地道に友好関係を築き、交流事業を行い、共生社会の実現を目指し尽力して来た全国の市町村や地域住民の努力も水泡に帰しました。選手と市民、特に子どもたちとの交流といった掛け替えのないオリンピックの“正のレガシー”は、大会開幕前にすでに失われていたことになります。

 

こうした組織委員会ならびに自治体の「白」か「黒」といった二者択一の判断には、政権批判とオリンピック開催の是非とを混同し「人命か五輪か」といった”誤った二分法”を得意げに撒き散らしたネット住民、そして2013年のオリンピック開催決定以来、ひたむきに努力を積み重ねて来た全国の数多くの寡黙な人々の意見に耳を傾けることなく、感情論を増幅し続けたマスメディアの報道が大きく影響したことは云うまでもありません。

そもそも東京都内に居を構えていれば、すべての会場が無観客となったことからオリンピック開催によって都内の人流が急増したわけではないことなど、年端もいかない子どもでもわかります。誰一人として言及しようともしませんが、新型コロナウイルスによるリスクを最重要視するのであれば、今月24日に開幕予定の東京2020パラリンピック競技大会の、少なくとも1〜2ヶ月の延期でしょう。違いますか? 見識のある”文化人”の皆さん、政局本位の”政治家”の皆さん。

 

「批判」、「冷笑」、その次に来るのが「悔恨の念」です。「私たちは何のためにオリンピックを招致、開催したのか」、「東京2020オリンピックから、私たちは何を得て、何を失ったのか」、「私たちは、こんな”無様な”オリンピックしか開けない国民なのか」。大会終了後、こうした命題を突きつけられるのは、日本オリンピック委員会(JOC)や組織委員会、日本政府、東京都のみならず、オリンピックの本質を理解することなく流言飛語に踊らされた私たち、日本国民自身でもあります。

やがて襲い来る「敗北感」そして「自責の念」。新型コロナウイルスのせいにすることはいとも容易い。おそらく私たちは、問題点を明らかにすることなく忘却の彼方へと押しやるでしょう。しかしながら、社会的分断から生じた攻撃的かつヒステリックな言動が、これで終息したわけではありません。これからも事ある毎に不寛容な正義感は立ち現れ、壊れかかったこの国の「崩壊」を加速させて行くことでしょう。

今回の東京オリンピックは、「成功」ではなかっただけではなく、「多様性」と「調和」といった美徳をも亡きものとし、私たちに癒やし難い深い疵を残しました。残念ながら私たちは、新型コロナウイルス終息後に待ち構えている社会、経済、政治の「復興」に立ち向かうための、大きな武器を予め失ってしまったようです。