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長崎原爆資料館が所蔵するカトリック浦上教会 (浦上天主堂) で被爆した天使像。1985年 (昭和60年) 11月に、東北大学名誉教授 木村一治氏から長崎大司教区を通して寄贈された貴重な原爆被災資料。

 

〽こよなく晴れた 青空を

悲しいと思う せつなさよ

うねりの波の 人の世に

はかなく生きる 野の花よ

なぐさめ はげまし 長崎の

ああ 長崎の鐘が鳴る

 

(『長崎の鐘』第1節 作詞 サトウハチロー 作曲 古関裕而)

 

 「自分は未だ嘗て長崎に於けるが如く、軟かな美しい鐘の音を聞いたことは無い。(中略)  何処からとも知れぬが、確かに二三箇所から一度に撞き出される梵鐘の響は、長崎の町と入海とを丁度円形劇場のやうに円く囲む美しい丘陵に遮られて、夕凪の沈静した空気の中に如何にも長閑に軟かく、そして何時までも消えずに一つ処に漂つてゐる。最初に撞だされた響が長く空中に漂つてゐる間に新しく撞出される次の響が後から後からと追ひかけて来て互 に相縺れ合ふのである」と、 綴ったのは文豪 永井荷風でした。1911年 (明治44年) 8月のことです (随筆『海洋の旅』より)。

 その16年前にカトリック浦上教会 (浦上天主堂) は着工されていますが、献堂式があげられたのは14年 (大正3年) なので、荷風は“アンジェラスの鐘”の音は耳にしていません。

 天主堂は戦前から国宝に指定されていたため、この青銅製の大小2個の鐘は戦時中も供出から免れることが出来ました。しかしながら79年前の今日11時2分、同地に落とされた原爆により、吹き飛ばされてしまいます。

 

永井隆博士の妻 緑さんが使用していたロザリオ。緑さんは爆心地から北東へ約500メートル離れた自宅で被爆し、博士がかけつけた時にはすでにその姿はなく、焼跡には遺骨とこのロザリオが残されていました (長崎原爆資料館 所蔵)。

 

〽召されて妻は 天国へ

  別れてひとり 旅立ちぬ

  かたみに残る ロザリオの

  鎖に白き わが涙

  なぐさめ はげまし 長崎の

  ああ 長崎の鐘が鳴る

 

(『長崎の鐘』第2節 作詞 サトウハチロー 作曲 古関裕而)

 

 敬虔なカトリック信徒で長崎医科大学放射線科部長でもあった永井隆博士がしたためたメッセージに触発されて作られたこの曲には、長崎の静かなる慟哭が込められています。

 同年12月24日、クリスマスイヴ。仮設の柱に釣らされた”アンジェラスの鐘”は、人々に”希望”の音を奏でました。その後再建された天主堂の右手の鐘楼に戻されたこの鐘は、今も毎日5時半と正午、18時に鳴らされています。

 長崎は、鐘の多い街です。今日も、恒久平和を願い尊い鐘の音が、市中に隈無く鳴り響くことでしょう。「長崎を最後の被爆地に」。じげもんの、人類の悲願を乗せて。

 

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