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戦争の”せ”の字も知らない甘ちゃん政治家たちは、「軍隊」の怖ろしさを知らない。自由民主党が2012年(平成24年) に作成した『日本国憲法改正草案』には、あろうことか「自衛隊」を「国防軍」にすべしと記されています。第二章の表題が「戦争の放棄」から「安全保障」に変更され、「国防軍」は自衛権の発動以外にも「法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」 (第九条の3) と定められています。未だ声変わりもしていない日本維新の会の議員さんは、それが「国際標準化だ」と、したり顔で云って見せます。

よろしい。ならば最低限の知識として、もしも自衛隊が「国軍」になれば、当然のことながら「防衛省」は「国防総省」、または同盟国である米国にように「戦争省」に組織変更しなければならないことはお判りですね? また、戦前・戦中のように国務大臣として陸軍大臣ならびに海軍大臣を置くことはさすがに憚られるでしょうが、米国防総省に倣えば国軍を統括する行政府の長として国防大臣 (Secretary of Defense、または戦争長官: Secretary of War) を任命する必要が生じます。

米国では合衆国法典 (Code of Laws of the U.S.A.) によって国防大臣は”文民”であることが定められており元・軍人は退役後、7年間は同職には就けないといった制約が設けられていますが (准将未満)、軍務経験がある者が国防大臣となるケースは決して珍しくはありません (“国軍”を有する以上、軍事知識・経験が豊富な元・軍人、またはピート・ヘグセス現・国防長官のような一介のテレビニュース番組の司会者のいずれが国防総省の統率者として相応しいかは議論のあるところです)。

さて「自衛隊」が「国防軍」となった暁には、軍事費 (旧・防衛費) が増大するに伴い、国防総省 (旧・防衛省) の発言力が高まることは容易に想像されます。軍事超大国である米国では、辛うじてシビリアン・コントロールが機能していますが抽象論に惑わされ、短絡的思考に陥り勝ちな我が国の場合はどうでしょう? 現在のように金権政治が一向に改まらず、政府の無策によって国民生活が更なる困窮に陥れば、「国防総省」が痺れを切らして軍事クーデターを起こす可能性もないとは云い切れません。

口より先に手が出る。古今東西、実力組織であり、時として”暴力装置”ともなり得る「軍隊」とはそういうものです。なぜならば、じっくり議論を重ねコンセンサスを図っていたのでは”敵国”に先制攻撃を許してしまうからに他なりません。あなたは、「軍隊」の決断、行動の早さに驚くでしょう。少なくともそこまではお判りになりますね? 

 

高市早苗内閣総理大臣は、衆議院解散を表明した今年1月19日の記者会見で「国民の皆様の命と暮らしを守るのは国の究極の使命でありますから、外交安全保障政策も極めて重要です。決して右傾化などではなく普通の国になるだけだと私は考えています」と語っておられました。

なるほど。マグナ・カルタ以来、国民の権利・自由を国家権力から守る”盟約”とされる国家の最高法規たる憲法に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と明記し、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」 (第二章第九条) などと宣している国は他にはなく、”普通”ではありません。今年の建国記念の日に「日本の誇るべき国柄を未来を担う次の世代へとしっかりと引き継いでいく」と訴えていたにも関わらず高市総理は、我が国が他国とは異なるオリジナリティを有していることがお気に召さないようです。

 

1950年8月に警察予備隊令 (昭和25年政令第二六〇号) が公布され、自衛隊の前身となる警察予備隊が創設される。

 

他方、戦前は外務官僚として開戦阻止に奔走し、戦後は自衛隊の前身となった警察予備隊の創設に尽力した吉田茂 元内閣総理大臣は1957年 (昭和32年)、後に防衛大学校となる保安大学校一期生の卒業式でスピーチを行い、卒業アルバムの編集長であり、海上自衛隊では三等海尉として護衛艦『ちとせ』の艦長を務めた平間洋一氏 (一期生) の依頼を快く引き受け、卒業アルバムに『防大生に与ふ』という一文を寄せています。そこで彼は、

「独立国の国民として、国の独立程大事なものはなく、この独立を守る事こそ、国民としての名誉であり、誇りであり、この誇りが愛国心の基礎をなすものである。国民に独立を愛し、独立を守る決心なくんばその国の存在はあり得ない。(中略) 兵は凶器である。これを用ふるは苟しくもすべきではない。又、これを用ふるにおいてはこれを止むる用意がなければならない。所謂、武なる文字は、戈を止むると書くのである」とし、戦時中の軍部の暴走を例に取り、「歴史の示すところは、以って、将来の戒めとすべく、兵を用いて兵をとどむるの用意なくんば、善謀善戦も何の益するところなし。兵を学ぶ諸君、常に茲に心を致されんことを望む」と、彼の好んだ中国古典『易経』の「繋辞伝」の一節「居於治不忘乱」をわかりやすく説いてみせました。戦争を知らないあなた方、現代の政治家の皆さんは、「負けて、勝つ」と喝破した吉田茂ほどの気骨と胆力を持ち合わせていらっしゃるでしょうか? 武力を言論で抑え込む覚悟はお持ちでしょうか?

 

宜しいですか。他人事ではありません。軍部が政権を掌握すればどうなるか。想像されたことはおありですか? 云うまでもなく、生ぬるい文民政治家は問答無用で粛清されてしまいます。そう、あなたも例外ではあり得ない。収監され、拷問を受け、運が悪ければ留置所で命を落とすかも知れません。我が国の軍人は規律正しく、間違っても国民に銃を向けることはない。日本人が日本人を虐待することなどあり得ない。そう胸を張る前に、まずは軍事、戦争史をしっかと学んで頂きたい。そこには、あなたが夢想するような甘っちょろい軍隊など、どこにもありません。

その時になって、自らの未熟さに気づいても時既に遅しです。後から「自分の判断の甘さは万死に値する」と謝罪するのは、いつの時代も雄弁に無秩序な軍事力の増強を唱えていた無知蒙昧な面々です。ポピュリズムに迎合した志なき政治家たちです。

国防は極めて重要です。己の身は自ら守らなければならない。しかしながらそのためには、「居於治不忘乱」のみならず、『孫子』の「謀攻篇」にある「不戦而屈人之兵」 (戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり)を徹底的に追求し、実践する。それが兵法の基本です。1960年 (昭和35年) 当時、『朝日新聞』の「声」欄に掲載された一自衛隊員 (当時26歳) の投書はこのように綴られています。「われわれは『いつかきた道』を歩まんがために、生命を売って銃を取っているのではない。純粋の『自衛手段』だけを信じて、この泥くさい職業を選んだのである」 (原文ママ)

「国防とは何か?」を知りたければ、机上の空論を弄ぶことなくウクライナへ、イラン・イスラム共和国へ、パレスチナ自治区ガザへ直ぐさま視察に行かれることをお薦めします。「軍隊」は、実戦においてのみ、その正体を現します。それが、私が拙い経験から体得した紛れもない現実です。