
高市政権になって以降、降って湧いたかのように国旗 (日章旗) の処遇が物議を醸し、遂には日本国旗損壊罪法なる悪法が公布されるに至りました。議論を深めることは重要ですが、「日の丸」を讃美する者も忌避する者も型通りの主張を繰り返すばかりで、小さなコップの中のいがみ合いから一歩も踏み出してはいない。高市早苗内閣総理大臣の”肝煎り”と云いながらも、国旗に関する知識もなければ見識もない政治家たちが顔を突き合わせたところでまともな議論が出来るはずもない。そもそも日章旗 (日の丸) とは何か。日本国民であるあなたはご存じですか。
我々日本人は古代から、森羅万象すべての源である太陽を信仰の対象として崇めて来ました。そのため「日の丸」の歴史も古く、『続日本紀』には701年 (大宝元年) に文武天皇が朝賀の儀において「日像」の旗を掲げたとの記述があります。
白地に赤丸をあしらった意匠の由来については諸説ありますが、源平合戦の折に平氏は錦の御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」の幟を掲げて戦い、源氏が武家政権を樹立した後は天下統一のシンボルとしてこの「日の丸」が受け継がれたとも伝えられています。以来、「紅白」は縁起の良い配色とされ、近世においては江戸幕府が天領から年貢米を運ぶ御城米廻船に「白四半に大なる朱の丸」を描いた幟を立てるように指示しています。”最古の日の丸”と云われていた奈良県五條市の堀家に伝わる旗は、年代測定の結果1463〜1528年もしくは1553〜1634年の間に制作された絹製と判明したため、戦国時代から安土桃山時代に使用された可能性が高いとも推測されています。

新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」

「大中黒・新田一つ引」をあしらった旗章
幕末期、開国を求める欧米列強が日本に押し寄せて来ると、幕府は日本と外国船舶とを識別する日本惣船印を早急に定める必要に迫られます。幕府は当初、源氏の流れを汲む徳川氏の祖である新田氏 (新田義季) の家紋である「大中黒・新田一つ引」をあしらった「大中黒」を採用する腹づもりでいました。これは白地に黒の横一文字といった日の丸とはまったく異なる、寧ろ真逆のデザイン、配色です。これに対して水戸藩主の徳川斉昭が猛烈に抗議。建白書を幕府に提出し、古くから旗じるしとして用いられて来た「日の丸」を国旗に推薦します。
他藩に先駆けて軍艦を製造していた薩摩藩主の島津斉彬もこれを後押ししたため1854年 (嘉永7年) 7月11日に幕府は、「日本の惣船印は、白地日之丸幟相用い候ふ様」との布告を出し、日の丸を日本のシンボルに定めました。日の丸を日本惣船印として初めて掲げたのは島津藩が幕府に献上した『昇平丸』でした (しかしながら同藩は赤色に染める技術を持ち合わせていなかったため、縁戚関係にあった福岡藩主 黒田長溥に頼み、領内の穂波郡山口村茜屋地区に伝わる茜染めが用いられました)。新時代の息吹をいち早く感じ取ったこの二人の働きかけがなければ、ややもすれば鯨幕を想起させる「大中黒」が日本の国旗となっていたかも知れません。
日章旗 (日の丸) を崇め奉る者も、忌み嫌う者も詰まるところは明治以降の近代史における文脈でしか捉えていない。歴史的、文化的背景を知らずして国家のシンボルたる国旗は語れない、語るべきではない。日本国旗損壊罪法然り、無知蒙昧な政治家が音頭を取り、付和雷同の国民が訳も分からず賛同する、または反対する。そこにこの日出ずる国の根源的な不幸が横たわっています。
脚注: 拙著『国旗・国歌国民〜スタジアムの熱狂と沈黙』 (角川新書) から一部転載。





































