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  この静謐な空間に、これまで何度足を運んだことだろう。広島平和記念資料館、通称”原爆資料館”。ここは私にとって「ヒロシマ」への鳥羽口であり、学びの場であり、滂沱の涙の置き場所でもあった。ドキュメンタリー映画『原爆資料館〜語り継ぐものたち』 (監督 斉藤俊幸 制作 広島ホームテレビ) が劇場公開されたと知り早速、鑑賞させて頂いた。

  本作は、云ってみれば「ヒロシマのこころ」を支え続けて来た”裏方たち”の戦後史である。原爆の熱線によって溶け落ちた瓦や石といった瓦礫を丹念に拾い集め、広島市中央公民館で「原爆参考資料閲覧室」を開いた地質学者で初代館長の長岡省吾氏を始め、「ヒロシマ」を、被爆の実相を世界に伝える橋頭堡を築いた第3代館長 小倉馨氏、「憎しみで憎しみを消すことは出来ない。憎しみを乗り越えてこそ平和が来る」と対話を重視し、広島に原爆を投下した米 B-29 爆撃機『エノラ・ゲイ』の機長であったポール・ティベッツ氏とも文通を続けた第7代館長 高橋昭博氏ら、誇り高き公務員たちの戦いが膨大な記録映像によって”語られて”いる。

  私にとっては訪広の度にお目にかかりお世話になって来た小倉桂子氏 (故・小倉馨館長の妻) や何時間も時間を割いて「ヒロシマのこころ」を知る幾多のヒントを与えて下さった第12代館長 志賀賢治氏、そして拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の取材時に出逢った現館長の石田芳文氏ら (第14代)、懇意にさせて頂いている方々が次々とスクリーンに映し出され殊の外、感慨深いものがあった。

 

  1955年 (昭和30年) に開館した同館の設立目的は、広島平和記念資料館条例 (昭和30年広島市条例第23号) の第1条に記されている通り「原子爆弾による被害の実相をあらゆる国々の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与する」ことである。以降、展示内容・構成に苦心惨憺しながらも2025年度 (令和7年) には過去最多の年間258万926人の入館者数を記録。開館以来の累計入館者数は昨年度段階で8272万1830人にまで達し、核兵器の残虐さと非人道性を、科学的事実を踏まえて客観的に伝える世界で唯一の公共施設として機能している。

このドキュメンタリー作品はナレーションを一切排し、秀逸な編集と映画『ドライブ・マイ・カー』の音楽も担当された作曲家 石破氏英子氏の手による”祈り”を感じさせる揺れ動く旋律のみで構成されている。特定の人物、事象を深掘りすることなく、同館の歴史を総覧する手法には賛否もあるだろうが、私にとっては初見の映像も多く、十分に楽しめる作品となっていた。

経営が危ぶまれる地方局にとっては、キー局の制作ではないオリジナル・コンテンツをいかに商品化するかが喫緊の課題となっている。こうした危機的状況は必ずしもマイナス要因ばかりではなく、局員が改めて故郷の有り様を見詰め直し、全国の視聴者に受け入れられるだけのクオリティを有した番組作りに取り組むきっかけともなっている。その意味において本作は、「ヒロシマのこころ」を知る入門編としては及第点と云えるだろう。

 

広島平和記念資料館には、2万2000点を超える遺品や被爆資料が収蔵されている。

 

  敢えて苦言を呈するとすれば、「今なぜ”原爆資料館”なのか」といった根拠が今ひとつ曖昧であったように思われた。広島平和記念資料館は、館名に「平和」の二文字が含まれてはいるものの、飽くまでも被爆資料や遺品を収集・保存し、これら”モノ”を通じて被爆の実相を広く伝えることが責務であり、積極的に「平和」を啓蒙することが目的ではない。これは関係者であれば皆、共有している立ち位置であり実際、同館が主体的に世界へ向けて恒久平和を訴えかけたプロジェクトはこれまで殆どなかったと云って良いだろう。

  それではなぜ「平和」の二文字が加えられたのか。それは拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』で詳細に成立過程を追った広島平和記念都市建設法 (49年公布・施行) の存在が大きく関わっている。この特別法の成立により、広島市に対する国による補助率は引き上げられ、同館は平和都市建設のシンボルとして建設されることとなった。被爆81年を経て、改めて同館の存在意義を現在の世界情勢と併せて考察するセグメントがあっても良かったように思う。

  志賀 元・館長は同館について、「ただ展示するだけではなく、遺品の持ち主は誰で、どのような用途で使われ、どこにあったかを確定する『固有名詞のある展示』を目指しています」。つまり、”記憶”を”記録”に置き換える作業であり、「”モノ”をして語らせる」ことが目的であると語って下さった。事実、彼が主導し7年前にリニューアルオープンした本館では、単なる被爆資料・遺品の展示に留まらず名前のある一個人の半生に迫るプレゼンテーションが施されている。

 

  この手法は、来館者により被爆の凄惨さ知らしめる効果を生み、”被爆者なき時代”の到来に備えた展示ともなった。”モノ”は、嘘をつかない。しかしながら、”モノ”だけでは入館者にかかる負荷は大きい。彼らは、必ずしも豊かな想像力を有した者ばかりではない。同館には、被爆者の存在に甘えることが許されない”被爆100年”に向けて更なる”進化”が求められている。同館が2028年春からの導入を予定している”選択展示”もその一環だろう (https://japanews.co.jp/concrete5/index.php/Masazumi-Yugari-Official-Blog/2026-06/ゆるやかな死-序章-その)

  今後、広島平和記念資料館は1945年 (昭和20年) 8月6日で時計の針が止まった”原爆資料館”であり続けるのか、それとも世界へ、未来へ開かれた”平和博物館”へと舵を切るのか。新たなカウントダウンはすでに始まっている。