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先月21日、岸田文雄総理大臣が第77回 国連総会において行った一般討論演説の原稿を、改めて読み返してみました。「加盟国が団結して平和と安全を維持し、全ての人が経済的・社会的に発展する国際社会の実現」や「法の支配が根付いた国際秩序が維持されることが不可欠」といった文言が並び、来年1月から安全保障理事会の非常任理事国となる我が国の決意表明といった体裁が取られています。良く練られたスピーチ稿ではありますが、内容から云えば我が国ならではの「提案」が希薄であり、新鮮味に乏しい。これでは国際社会にインパクトを与えることは出来ません (実際、海外の主要メディアでは一切報じられていません)。

 

ロシア連邦がウクライナへの軍事侵攻を開始して間もない今年3月6日、このブログにコラム「岸田クン、君は一体何を躊躇しておるのかね?」を綴り、我が国が有する唯一の”倫理的輸出品目”である日本国憲法を停戦協議に活用すべしと提案しました。岸田総理が、「世界各地で既存の国際秩序が試練に曝されている今こそ、国連憲章の理念と原則に立ち戻り、国際社会における法の支配に基づく国際秩序の徹底のため力と英知を結集する時です」と訴えるのであれば尚更です。国際舞台で日本独自のアクティヴ・プランを示すことこそが独立国としての権利であり、国際社会に対する貢献とも云えるでしょう。外務大臣も歴任されたわけですから、引っ込み思案は国内だけにして頂きたい。

「ロシアのウクライナ侵攻は、国連憲章の理念と原則を踏みにじる行為」、これは正しい。非難して然るべきです。しかしながら、”軍隊”を保有しない我が国は、米国や北大西洋条約機構(NATO)が主導する世界戦略に安易に同調すべきではなく、また現実問題として自衛隊が参画出来る余地はまったくありません。

 

ではどうすべきか。まずは日本の立ち位置、日本国憲法によって定められた我が国の「戦争放棄」の理念を丁寧に国連加盟国に説明する必要があります (実際、我が国がこうした人類史上例を見ない崇高な憲法を掲げていることを知る人間は海外に殆どいません)。その上で、我が国が出来ることを明確にプレゼンする。

それは何かと云えば、戦後復興。これに尽きます。太平洋戦争中、度重なる空襲により我が国の主要都市は壊滅的状況に追い込まれました。東日本大震災や阪神・淡路大震災を始めとする数々の自然災害によって未曾有の惨禍にも見舞われました。それでも、諸外国が驚くほどのスピードと精度で奇跡の復興を成し遂げて来た。そこには、日本国民が血と汗を流しながら蓄積した知恵があります。自衛隊にも実践から得られた貴重なノウハウがあります。これらは、世界広しと謂えども、どの国も有していない優れた英知です。

 

 

ウクライナ紛争がいつ終結するかは、誰にも予測はつきません。しかしながら、いつか必ず戦火は収まります。終戦を迎えれば、それまで我も我もと出張っていた国々は、まるで潮が引いたかの如くいなくなるでしょう。なぜならば、復興支援には目に見える見返りが期待出来ない膨大な資金を要するだけではなく、地道で根気の要る果てしない作業が続くからに他なりません。

世界銀行と欧州連合 (EU) が先月9日に発表した報告書によれば、今年6月1日段階ですでにウクライナの再建には3,490億ドル (約50兆円) が必要になると試算されています。もちろんこれは速報値であり、戦闘が長引けば長引くほど必要経費は膨れ上がります。

 

誰もやりたがらない、陽の当たらない業務です。だからこそ岸田総理は、「私たち日本人は、いかなる理由があろうとも戦闘行為、武器供与に加わるつもりは一切ありません。しかしながら、ウクライナの戦後復興には主導的役割を果たしたい」と、胸を張って宣言すればいい。

先進国の中には「日本は、一体何を考えているんだ」と呆れ返る政治家がいるかも知れません。「貧乏くじを引いたな」と嘲笑する役人もいるでしょう。でも、それがどうしたと云うのでしょう。共に担いだ土嚢の重さ、手を合わせた質素な墓標、そして日本人と共に初めて再建した小学校の姿をウクライナの人々は決して忘れることはないでしょう。後世にしっかと語り継いでくれることでしょう。また、心ある世界中の多くの人々も、日本に対する称賛を惜しまないでしょう。人類が宿す”良心”。これを私たちは”神”と称しますが、”神”は、必ず見ています。

 

   我が国が国連の常任理事国に名を連ねることは、日本政府の長年の悲願です。そのためには一見、遠回りにも見えるこうした復興支援に特化し、専念することで初めて道は開かれます。私たちは、日本国憲法の前文で謳われているように「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と決意しました。目先の”勲章”ではなく、人類にとっての”名誉ある地位”とは何か。政治家のみならず私たち自身が胸に手を当て、改めて考えなければならない時が迫っています。