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共に外科治療を学んでいたインド人のアナンダバイ・ジョシー・セラニョソレ(左) と岡見京(中央)、シリア人のタバット・M・イスラムブーリー・ダマスカス(右)。1885年10月10日撮影。

 

今日は国際女性デー (International Women’s Day)。1908年 (明治41年) に米ニューヨークで起こった繊維労働者のストライキで、約1万5,000人もの女性たちが労働条件 (賃金、労働時間、選挙権、児童労働) の改善を求めてデモを行ったのがその発端でした。当時のスローガンは「パンとバラ」 (Bread and Roses)。彼女たちの勇気ある行動は瞬く間に世界中に伝播し、1910年 (同・43年) にデンマーク王国の首都コペンハーゲンで開催された「社会主義インターナショナル」において国際女性デーは制定されます。それから半世紀以上を経た75年 (昭和50年) になって漸く国際連合も記念日として認め、今では多数の国々で国民の祝日となっています。

 

国際女性デーが定められたちょうどその頃、我が国における女権拡張運動の尖兵とも云える中島湘烟 (岸田俊子) は、「藪入に鳥渡そこまで独旅行」といった辞世の句を残してこの世を去っています (詳細はこのブログの『怪しむ、この堯舜の政事、いまだ堯舜の民を出さざるを。』参照。https://www.japanews.co.jp/concrete5/index.php/Masazumi-Yugari-Official-Blog/2021-2/怪しむ-この堯舜の政事-いまだ堯舜の民を出さざるを)。また、日本人女性として初めて海外の医学校を卒業した岡見京も、男尊女卑の壁に敢然と立ち向かっていました。

 

1859年 (安政6年) に生を受けた京は南部藩西田家の出身で、84年 (明治17年) に私費で米ペンシルベニア女子医科大学 (Woman's Medical College of Pennsylvania ) に入学しています。同校は、奴隷制度廃止論者で逃亡した奴隷たち約2,000人を匿ったクエーカー教徒のバーソロミュー・フセール (Bartholomew Fussell) らによって1850年 (嘉永3年) に設立された世界初の女子医科大学でした (現・ドレクセル大学医学部)。人種や宗教、国籍によって差別しない、といった当時としては極めて革新的な医療機関として知られており、欧米のみならずインドや清国 (現・中華人民共和国) からの留学生たちも受け入れていました。

 

京が留学していた当時のペンシルベニア女子医科大学の解剖学の授業風景。

 

卒業後、同大の医全科卒業の証書を携えて帰国した京は、すぐさま医術開業免許を取得します (第三九二七号医籍登録)。これは東京女子師範学校 (現・お茶の水女子大学) で学び医術開業試験を受験しようとしたところ、「女性の医師は前例がない」との理由で却下されるなど、苦労の末に受験にまで漕ぎ着けた公許女医1号の荻野吟子、生澤クノ (2号)、高橋瑞子 (3号)、本多セン (4号)に続く快挙でした。

しかしながら東京慈恵醫院 (現・東京慈恵会医科大学附属病院) に婦人小児科医として雇用され、主任医師の地位にまで登り詰めたにも関わらず、昭憲皇太后が同院を訪れた際、女性であることを理由にアテンドを辞退するよう求められたことに抗議し、自ら辞表を叩きつけます (ちなみに同院の「慈恵」という名称は昭憲皇太后から賜ったものです)。

その後は自宅で医院を開業しながら、東京・新宿角筈 (現・歌舞伎町周辺) に結核療養施設『衛生園』を設立しましたが、米国で最新の医療技術をマスターした類い希なる才能を十分に活かせた晩年とは云い難かったようです。ダイバーシティとインクルージョン (多様性と包摂性) などといった文言が叫ばれるほんの1世紀前の話です。

 

晩年の岡見京。

 

2018年 (平成30年) に東京医科大学を始めとする数校で、女性受験者に対して一律減点が行われていたことが明らかとなりました。こうした入試差別の背景には、女性の妊娠・出産のよる離職への懸念があったと謂われています。と同時に、医療従事者の苛酷な労働環境の改善を求める声も上がりました。いずれにせよ、性別・年齢・人種・信仰に関わらず万人がスタートラインに立てることが民主主義の基本です。国際女性デーは、優れた能力を有しながらも悪しき慣習によって可能性を閉ざされ、志半ばにして挫折せざるを得なかった無数の女性たちに想いを馳せ、改めて「男女平等」の意味を考える真の”桃の節句”と云えるでしょう。

 

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