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『地雷を踏んだらサヨウナラ』(講談社)で知られる戦場カメラマン 一ノ瀬泰造さんは1972年10月下旬、ベトナム南東部のアンロク(Trận An Lộc)付近でオペレーション(米軍の作戦行動)に同行取材していた際に被弾。その時、手にしていたニコンF。銃弾が突き抜けた跡が生々しい。

 

学生時代から、写真に惹かれていました。もしも私に腕と運があれば、報道カメラマンになっていたかも知れません。報道写真の場合は、運が7割。決定的な瞬間と相まみえる天命を持ち合わせていなければ、いくら腕が良くても日の目を見ることはありません。

 

残りの3割は技術。とは云え、日本人報道カメラマンの場合、切り取った瞬間をアートの域にまで昇華出来るセンスとテクニックが圧倒的に欠落していたことが、国際的に賞賛される報道カメラマンが少ない理由だったように思います。一度、ユージン・スミス賞を始めとする数々の国際賞を総なめにした写真家セバスチャン・サルガドさんとお話する機会がありましたが、彼のドキュメンタリーでありながらも1枚の絵画とも思えるほどクオリティの高い作品群を拝見し、度肝を抜かれました。腕も運もない私が、カメラを手放したのは、ちょうどその頃でした。

 

私がまだ駆け出しで、世界各地の紛争地帯をほっつき歩いていた当時は、辛うじてまだ筋金入りの戦場カメラマンの方々と、あちらこちらの現場で出会うことが出来ました。1965年からベトナム戦争を撮り、カンプチアの大虐殺やアフガニスタン紛争も取材された伝説のカメラマン 石川文洋さんにも大変お世話になりました(何をとち狂ったのか、ペーペーの私如きに自著『ベトナムロード〜南北2400キロの旅』[平凡社]のオビを書かせて下さったのも、今となってはいい想い出です)。

 

石川文洋さんが撮影した『ベトナムシリーズ 飛び散った体』(1967年)。ホーチミン市内にある『戦争証跡博物館』(Bo tàng Chng tích chiến tranh)では、石川さんが寄贈した約250点の作品が常設展示されています。

 

1980年代当時、こういった紛争地帯の取材現場はまだ、厭になるほど男臭い”職場”でした。一方で、フリーランスであろうが誰であろうと受け入れる、いなくなっても気にもかけない、自由な気風に溢れていました。

 

まぁ、そんな荒くれ者の集まりですから、子どもの写真を中心に撮るようなカメラマンはひとりもいませんでした。撮ったとしても敢えて発表しない。または連作の1枚として加える程度。ある意味、「子どもを撮る」という行為は、一種の「逃げ」と捉えられていました。

テレビの世界でも、視聴率に困ったら「”子ども”か”動物”を出せ」が鉄則です。言うまでもなく、紛争地帯で悲惨な生活を強いられている子どもたちを撮れば、観る者の心を動かします。感動を呼び起こします。しかしながらそれは、戦場カメラマンたるものやるべきではない、といった暗黙の了解、矜持というものがあったように思います。また、子どもたちの写真は、命を賭して最前線にまで行ってシャッターを切らなくとも、撮ることは出来ます。言ってみれば、子どもの写真で喰っているようなカメラマンは軟弱、安全地帯に身を置いて傍観する腰抜け野郎と見られていた、何とも男臭い時代でした。

 

昨今、”戦争カメラマン/ウーマン”と称される方々が出版される写真集を見ていると、子供たちを捉えた作品が多いように思います。戦火に怯えながらも笑顔を忘れない子どもたち…。古い奴だとお思いでしょうが、それ(だけ)では戦争の本質は見えて来ません。また、戦場からの帰国報告は別として、”語り”の多い”戦場カメラマン/ウーマン”も今ひとつ信用することが出来ません。「語る前に、てめえの写真に語らせろ」とついつい思ってしまう未だに男臭い自分がいます。

 

写真は、饒舌です。写真がどれだけ語るか、写真にどれだけ語らせるかは、ファインダーを覗くあなたの覚悟次第です。

 

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