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ドレスは女性の武器と考えていたブライは、ファッションには人一倍気を遣っていたと云います。

 

19世紀の米国では、様々な分野において女性たちが社会進出を目指して男性優位社会に闘いを挑みました。我が国ではあまり知られていませんが、同業であるジャーナリズムの世界では、ネリー・ブライがその魁となりました。

ジャーナリストに必要な能力は、事件の核心を嗅ぎ取る臭覚と、足が棒になるまで現場を歩く粘り強さと行動力。そして取材によって得られた情報を冷静に精査・分析し、多くの人々の琴線に触れる文章をしたためる創造力です。そのいずれかが欠けても民心を得ることは出来ません。

類い希なる才能と確固たる意志を兼ね備えたブライは、調査報道において現在のジャーナリストでも成し得ないほどの偉大な功績を残しました。

 

エリザベス・J・コクランは、米ピッツバーグの地元紙『ピッツバーグ・ディスパッチ』が掲載した「婦女子の要諦」 (What Girls are Good For) と題されたコラムを読み怒り心頭に発します。そこでは、女性の役割は「子を産み、家庭を守ること」と記されていました。18歳のコクランはすかさず匿名でジョージ・マドゥン編集長宛に反論の手紙を送りつけます。これを読み、彼女の文才をいち早く見抜いたマドゥンは名乗り出るように紙面で告知を行い、同紙を訪れたコクランを採用すると、早速コラム欄を与えます。

当時、女性はペンネームを用いることが当たり前であったため (女性は全ジャーナリストの約2%)、彼は著名な作曲家スティーブン・フォスターが放った1850年のヒット曲『ネリー・ブライ』 (Neily Bly) を使ってみてはとコクランに提案します (ペンネームの綴りは”Nellie”)。

 

〽 ネリー・ブライ! ネリー・ブライ! 箒を持って来て Nelly Bly! Nelly Bly! Bring de broom along.

私たちはキッチンを綺麗に掃いて ちょっと歌ってみせるわ We'll sweep de kitchen clean, my dear, and hab a little song.

『ネリー・ブライ』第1節より

 

若くしてチャンスを摑んだブライでしたが、担当は文化欄。来る日も来る日も女性向けのファッションや料理、演劇に関する記事を書くことに飽き足らなかった彼女は自ら工場へ赴き、女性の苛酷な労働環境の取材に取り組みます。こうした”暴露記事”に対して、同紙の重役たちは眉をひそめましたが、ジョーゼフ・ピューリツァーがオーナーを務めていた『ニューヨーク・ワールド』紙が23歳になったばかりの彼女に目を付け引き抜きました。

水を得た魚となったブライは、同市イースト川に浮かぶブラックウェルズ島 (現・ルーズベルト島) にあった女性専用の精神科病院に、患者を装って10日間にわたって潜入取材を敢行し、その赤裸々なルポルタージュは一大センセーションを巻き起こしました。

 

ブライの世界旅行をボードゲーム化した『ネリー・ブライと廻る世界一周旅行』は大ヒット商品となりました。左右に記されているのが、彼女が約2ヶ月半で訪れた都市名です。

 

ブライの名を一躍有名にしたのは、仏小説家ジュール・ヴェルヌが著した『八十日間世界一周』 (1873年) にヒントを得た女性一人の世界一周旅行でした。1889年 (明治22年) 11月14日、彼女はニューヨークを出発し、英国へ渡るとロンドンでヴェルヌ夫妻と対面。イタリア共和国からスエズ運河を越えて英領セイロン (現・スリランカ民主社会主義共和国) のコロンボへと渡り、シンガポール、香港を経て日本に辿り着きます。5日間、横浜や鎌倉に滞在した彼女は後に日本を「愛と美と詩と清潔の国」 (the land of love-beauty-portry-cleanliness) と絶賛しています。

翌年1月21日、米サンフランシスコに到着したブライは、旅行中『ニューヨーク・ワールド』紙が彼女の動向を逐一報道していたため米国民の歓呼に迎えられ、北米を横断してニュージャージー州のジャージー・シティに降り立ち、72日と6時間11分14秒の旅を終えました。

 

国民的英雄となったブライでしたが、彼女の旅はこれで終わったわけではありませんでした。5年後には40歳も年上の富豪ロバート・シーマンと結婚し、彼が亡くなると鉄工会社アイロン・クラッド・ファクトリーズを相続し、鉄製の樽 (現在のドラム缶の原型) など25もの特許も取得し、周囲を驚かせます。

ところが経営の才だけは持ち合わせていなかった彼女は会社を倒産させてしまい、債権者からの訴訟などにより一文無しに。1922年 (大正11年)、肺炎を患い失意の内にその波瀾万丈の生涯を終えました。

 

ノンフィクションは、フィクションとは異なり取材対象者がいて初めて成立する文学ジャンルです。上記3つの能力に男女差はありませんが、取材対象者の懐にどれだけ入り込めるか、については同性 (または異性) によって明らかに差異が生じます。特に19世紀、まだ女性の人権が社会的に認知されていなかった時代においては、ブライのような先駆的な女性がいなければ、女性が直面していた不正義や不公正を暴き出すことは出来なかったでしょう。来月5日、”婦女子の要諦”を書き換えたネリー・ブライは生誕160周年を迎えます。