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新型コロナウイルスの影響で、世はリモートワーク花盛り。半年余りを経て皆さんも、デジタル生活のメリットとデメリットを実感されている頃合いかと思われます。こうした実体験を踏まえた上で、改めて小中学校の教科書のデジタル化について考えてみたいと思います。

 

まずもって問題なのは、デジタル化に伴い投入されるデバイスがまだまだ開発途上にあるといった点です。このレベルのデジタル機器で教科書を紙からデジタルへ移行させるとデメリットの方が遙かに多い。

メディアリトラシーを克服する方法のひとつは、スキャニング技術を身につけることです。例えば、私のように本を書くことを生業としている者は、膨大な書籍、文献資料を読み込むわけですが、取材目的であれば1冊の本を3分もかけずに読み終えます。云うまでもなく完全な斜め読みです(よって、これは「読書」とは云いません)。ページをめくるのとほぼ同じスピードで読む、というよりは活字を目で追い、必要な情報があるかどうかを確認する。あればその箇所だけを熟読します(但し、効果的にスキャニングを行うためには予め、かなりの”読書体験”を積み、必要な箇所をピックアップする”勘どころ”を摑んでいなければならないことは云うまでもありません)。こうした”スキャニング”を行うためには、見開きページの隅々まで視野に入っていなければなりません。これが電子書籍では極めて難しい。

 

最も一般的な書籍サイズである四六判を見開きでフルにタブレット末端で見るためには、最低でも12.4インチ(A4判ともなれば14.3インチ)のモニターが必要となります。Appleのタブレットを例に取ればiPad Pro(12.9インチ)で、通常価格は最も容量の少ない128GBでも104,800円(税別)となり、重量は641グラムもあります。Appleには学生・教員向けの割引価格があるとは云え、これを自己負担とするのはいかがなものか。また、何冊分もの情報を持ち運べるとは云え、小学生低学年にとっては決して軽い代物ではありません。

 

こうしたデジタル化のデメリットは、書籍においてすでに顕在化しつつあります。【前編】でもお伝えしたように横書きの作品が増え始めている。横書きになれば、ページを開く方向も逆になります。洋書ではないのに体裁は洋書仕様となるわけです。また、電子書籍の売上の大半を占める漫画でも、デジタル化によってそのスタイルには変化が現れています。

 

ヴィジュアル中心の漫画ならば何ら問題はないだろう、と嘯くあなたは漫画の本質を知らない。日本が世界に誇る漫画の、最大の”発明”は「コマ割り」にあります。コマのサイズや形状を自由自在に変化させることで、二次元の紙面に動きと時間感覚を付加し、まるで三次元、四次元メディアかと思わせる深みとスピード感、そしてスケール感を読者に与える。これが世界に先駆けて手塚治虫先生が編み出した漫画の凄みであり醍醐味です。

しかしながらスマホ画面で漫画を読むとなると、上下のスクロールしか出来ません。こうなると従来のコマ割りのダイナミクスは表現出来ない。結果的に作家も、読者の視点が上下に動くことを念頭にコマ割りすることとなり本来、漫画が有していたパワーは著しく低下します。漫画さえ読まない政治家は、「漫画はジャパンクールだ♪」などと脳天気にはしゃいでいますが現実は、足元から漫画のクオリティが揺らぎ始めています。

  

また、読書では数ページ前に戻って内容を確認し、また読み進める、といったことは皆さんもよく経験されるはずです。紙の書物であれば1〜2秒もあれば事足りますが、電子書籍ではこれがやたらと面倒くさい。「イラッ」と来ます。要は、「活字を読む」といった”本来の目的”以外の”動作”が幾つもある、活字をスムーズに読む物理的、心理的フローを妨げる要素が多すぎる、ということです。

 

これでは、子どもたちの読書嫌いを助長するのは、火を見るよりも明らかです。ただでさえ本を読む子どもたちが減っているというのにこれ以上、活字から遠ざけて、どうしようというのでしょう。

「検索」が容易になる、といったこれまた合理主義の権化のようなオツムの悪い意見も聞かれます。教科書において、「検索」がスピーデイに行える長所とは何でしょう? 何ひとつありません。わからない言葉があれば自ら辞書を引き、知らない事象があれば参考書を開く。「学び」においては、こうした手間のかかるプロセスこそが重要なのであって、解答をいち早く見つけることにさしたる意味はありません。現時点における電子書籍のメリットは、単に嵩張る書籍を保管したり、持ち運ぶ必要がなくなる、といった物理的な側面のみです。

 

 人間という生き物は非常に高度な知性を持ち合わせてはいますが、一方では、途方もないお馬鹿さんでもあります。声を出して読むことで覚え、手を使って書くことで覚えるもの。身じろぎもせずにデータを集積するのはコンピューターに任せ、云われた通りに考えるのはAIに任せれば良い。しかしながら、無為無策のままデジタルが人間に取って替わると、人間は一直線に”馬鹿道”をひた走ることとなるでしょう。手と足を使え、とはそういうことです。

 

  「知識」と「教養」とは似て非なるものです。好い加減に、教科書丸覚え、参考書丸写しの科挙由来の教育システムから脱却し、幅広い教養を培うリベラル・アーツへと歩を進めてみてはいかがでしょう。特に小中学校で用いられる教科書の破壊力は絶大です。このままデジタル化が進めば、10年後には「薔薇」どころか「菊」も書けない生徒が大半を占めることとなるでしょう。それでもあなたは教科書のデジタル化を推進しますか?