
敬愛していたハツヤレイコさん (初谷禮子) が天に召されて、明日でちょうど1ヶ月となります。レイコさんは広島市内で『夕焼けぽっぽ食堂』を主宰され、貧困家庭の子どもたちのみならず、近所に住む勤め人や高齢者にも広く門戸を開き、丹精込めて作られた手料理の並んだ”食卓”が、地域社会の軸になることを夢見ていらっしゃいました。
レイコさんは常に、人間の”尊厳”を第一に考えておられました。彼女を始めスタッフや支援されている商店や農家の皆様もボランティアであることから彼女は、「様々な食料品を提供したい旨ご連絡を頂きますが、既に1ヶ月も数週間も賞味期限切れの食品はお断りさせていただいてます。良かれと思ってのことでしょうが、ご自分達で始末に困るモノを他人に押し付けるのはおやめいただきたいと思います。もしかして、こども食堂はなんでも喜んで貰ってくれる所だと勘違いされてるようでしたら、そうではないのだと是非お考え直していただきたいとお願い申し上げます。私たちこども食堂は、ご利用される皆さんが口にするものに責任を持ってご提供しています」と、筋の通らない申し出には毅然とした態度で相対しておられました(今年5月24日のフェイスブックより。原文ママ)。
例え極貧に喘いでいようが、年老いていようが、身心に障害を持っていようが、ひとりの人間であることに何ら変わりはありません。人としての”尊厳”が何よりも大切であり、それこそが社会によって守られるべき文明の”砦”であることを、レイコさんは身を以て教えて下さいました。

2年前、レイコさんのご自宅にて。
一昨日、秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場の第135回公演『I, Daniel Black – わたしは、ダニエル・ブレイク』 (脚本 デイヴ・ジョーンズ 訳・演出 大谷賢治郎) を鑑賞する機会に恵まれました (東京・新宿 紀伊國屋ホールにて10月5日まで)。英国の社会派映画監督ケン・ローチの作品 (2016年) を舞台化し、格差社会の底辺で傷つき、貶められ、死の淵を彷徨う労働者たちの絶望と再生を描いた、まさに現代版『失楽園』とも云える作品です。
心臓発作により職を失った大工のダニエルは、失業給付申請を試みますが、役所をたらい回しにされた挙げ句、職に就くことも出来ず困窮生活を余儀なくされます。一方、ロンドンから移り住んだシングル・マザーのケイトも給付金の交付を受けられず万引きに手を染め、遂には売春婦に身を堕としてしまう。決して贅沢をしたいわけではない。福祉・介護生活保護費を掠め取るつもりなど更々ない。唯々、平凡で平穏な生活を送りたいだけ。それでも合理主義の名の下、”寛大さ”や”酌量”は罪悪視され、生きることに不器用な人々は社会システムから容赦なく切り捨てられて行く。ローチ監督は、そうした公的サービスの理不尽さを鋭く抉り出し、白日の下に晒しました。
公務員の杓子定規な対応、官僚主義は世界中どこにでもはびこっています。いかなる条例・基準であろうとも、定められた通りに粛々と業務としてこなすことが彼らの役目であり、そこに情を差し挟むことは許されません。公平であることの不条理、民主主義の限界をダニエルの生き様は物の見事に体現しています。
我が国においても65歳以上の高齢者の貧困率は約20.0%にも上り、17歳以下の子どもたちの約11.5%が最低限の生活を強いられています (厚生労働省の 2021年度 国民生活基礎調査による)。生活保護世帯も1970年代前半には60万世帯であったものが、2023年時点では161万世帯、約206万人にまで膨れ上がっている。それでも国民の権利である生活保護の利用率は2割以下。その理由として扶養照会を始めとする世間体の悪さ、いわゆる日本人特有の恥の概念や英国と同じく申請プロセスの複雑さと煩雑さが指摘されています。
こども食堂の数も、認定NPO法人 全国こども食堂支援センター・むすびえの調べによれば昨年末段階で1万866箇所となり、この数は公立中学校・義務教育学校を合わせた9265校をも上回っています。こども食堂の延べ参加数は推定約1885万人 (子どものみは1299万人)。学校の数よりもボランティア施設が多い社会構造は、果たして健全と云えるのでしょうか。
ダニエルは最後に「私はダニエル・ブレイク、飢える前に申し立て日を決めろ!」と、役所の壁面に落書きして見せます。私には、国家によって振り分けられた”番号”ではなく、れっきとした”氏名”がある。誰でもない私だけの人生がある。そして一個人としてのプライドがある。人としての尊厳を守ることが民主主義の原点だったのではないか。彼の命を賭けた咆哮は、国境を越えて我々の心に突き刺さります。
私は、レイコさんが残された「国がすべき仕事をボランティアという名の無料奉仕にすり替えてるのは誰ですか?」 (5月31日のフェイスブックより。原文ママ) といった言葉を忘れることが出来ません。資本主義であろうが社会主義国家であれ、必ず社会から落ちこぼれる人々はいる。それは、彼らの生活態度や能力に因るところもありますが、病や事故、年齢、生活環境といった不可抗力によって一時的、または継続的に社会生活に破綻を来す場合も少なくありません。誰にでも起こり得ることです。福祉は、こうした人々に富める者が情けを掛ける、生活費を恵んでやるといった類のものではありません。孤独が人を殺す。話に耳を傾け、そっと手を握り、その背中に気を配るだけでいい。不完全であろうが一個人として人格を認め、皆が一丸となって一個人の尊厳を守り抜くことによって初めてコミュニティは成立する。
レイコさんがこの舞台を観れば何と云っただろう。終始、想いを巡らせていましたが答えは見つかりませんでした。ただ、満面の笑顔を湛えた子どもたちが集い、小さな頭を寄せ合っていた『夕焼けぽっぽ食堂』の穏やかで暖かな光景だけが脳裏に蘇っていました。



































