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広島市立基町高校・創造表現コースの生徒が描いたイラスト『折り鶴と女の子』。

 

被爆者の皆さんが、今の子どもたちにどのように被爆体験を伝えれば良いのか。”共通言語”を手掛かりに、どうすればより効果的に原爆の怖ろしさ、非人道性を伝えることが出来るのか。僭越ながら、私なりに考えたコミュニケーションの方法を綴って来たこの連載も、今回が最終回となります。

 

体験談を話された後、子供たちからはたくさんの感謝の手紙や感想文が送られて来ることでしょう。私にも経験がありますが、講演後に受け取るこうしたフィードバックは大変嬉しいものです。「これからも頑張って続けて行こう!」といった励みにもなります。

ただこの手紙、儀礼的に書くのではなく、引率の先生に言われて「書かされる」のではなく、子供たちが自分自身の言葉で紡ぎ出せるように、子供たちに向けて、ひとつの設問を提案なさってみてはいかがでしょうか。例えば、皆さんの体験談に基づいて、「あなた自身が被爆したと仮定してみましょう。その上で、あなたのお父さん、お母さん、兄弟、親友、もしくは恋人に手紙を書いて下さい」という問いかけです。

 

つまり、被爆体験を聞き、その場で終わらせてしまうのではなく、”自分事”として自らの頭と心、手を使って改めて疑似体験する、皆さんのお話を追体験するといった手法です。こうすることで子どもたちは今一度、皆さんの話を思い起こし、頭の中で反芻します。

 

「かあちゃんを悲しませないためには、どう書けばいいだろう」、「彼女にどう伝えればわかってもらえるだろうか。別れるとか云い出さないかな…」。子供たちは、頭に浮かんだ誰かの顔を思い浮かべながら自問自答することでしょう。考えれば、考えるほど「伝えること」がいかに難しいかがわかって来る。なぜか? それは皆さんの話を彼らは今、”自分事”として捉えているからです。

 

まっ白な便箋と格闘する過程で子供たちは、ひとつのことに気づきます。そう。自分には「大切なひと」がいる、ということ。とても単純だけれども得難い”気づき”です。普段は照れくさかったり、ムカついたり、面倒くさくて、正直な気持ちを伝えられなかった「大切なひと」。彼らは、その存在に気づきます。「大切なひと」がいること、そして、その「大切なひと」を守りたいという気持ち。これが「平和」の基本です。

 

彼らは、大人になっても被爆体験の継承はしないかも知れません。二度と広島へは戻って来ないかも知れない。それでも、彼らのこころの片隅に芽生えた「平和」の二文字は必ずや、やがて芽を吹き、皆さんの願いを彼らなりのやり方で実現してくれることでしょう。その時、大人になった彼らは改めて気づくはずです。「あの時、被爆者のおじいちゃん、おばあちゃんが話をしてくれたから、今になってこんな風に思うことが出来た」と。

 

 核兵器の廃絶、平和な世界の実現は、気が遠くなるほど長い道程です。でも、子供たちとこころを通わすのは、ほんの一歩、半歩の歩み寄りです。同じ言葉さえ話せれば、皆さんは子供たちと”友達”になれます。”友達”であれば、例え遠く離れていても、時を経ても、決して忘れることはありません。楽しかった、辛かった、10代のあなたを解き放してあげて下さい。

 

この連載を、ひとりでも多くの被爆者の皆さんに読んで頂ければと願っています。批判は覚悟の上です。それでも、ひとりでも多くの子供たちに皆さんの想いが伝われば、皆さんが伝える際のヒントになれば、との想いで綴って来ました。これも私なりの平和のバトンのひとつ、と考えて頂ければ幸いです。リレーとは、「大切なひと」の想いを繋ぐこと。