拙著『平和のバトン〜広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶』を上梓してから4年余りの月日が経ちました。「平和のバトン」といった云い回しそのものは、それ以前にもあったものと思われます。しかしながら書籍のタイトルとして採用したのは、拙著が初めてのことでした。
「バトン」は、広島市立基町高校・創造表現コースの生徒たちが描く「次世代と描く原爆の絵」を初めて目にした時、最初に脳裏に浮かんだ言葉でした。「バトン」。私にとってのそれは、鍛え上げられたアスリートたちが競い合うオリンピック競技大会の400メートルリレー走でも、選抜された選手たちが凌ぎを削る高校総体でもなく、小学校の運動会で行われるクラス対抗リレーでした。
一生懸命練習して来たのに本番で転んでしまう子、勉強はからっきしダメだけれど、この日だけはヒーローになれると意気込む子、病弱だけれど、皆に励まされて初めてバトンを手にした子、緊張の余り、お漏らししてしまう子…。個性豊かな子どもたちが、様々な想いで校庭に立ち、勝敗ではなく唯々、バトンを次の走者へと手渡すために前を向く。そこには、高校一年生で、初めて描いた油絵が「次世代と描く原爆の絵」だったという生徒たちが多いこのプロジェクトにも共通するスタンス、心構えがありました。
先日、『朝日新聞』(8月5日付)に、第26代高校生平和大使を務めることになった新潟市の女子高校生の話が掲載されていました (https://www.asahi.com/articles/ASR844527R7VUOHB00H.html)。彼女は、中学2年生の夏に拙著『平和のバトン』を読み、「原爆のことをもっと知ろう」と心に決めたと云います (この年、拙著は青少年読書感想文全国コンクールの課題図書《中学校の部》に選定されています)。
「バトン」が繋がりました。拙著を介して広島の高校生から新潟の高校生へ。そして全国約500人の応募者の中から22人の平和大使に選ばれた彼女は今月、スイス連邦の首都ジュネーヴにある国連欧州本部を訪れ、そこで彼女なりに、彼女のことばで「平和」への想いを語り、バトンを手渡してくれることでしょう。
被爆者の小倉桂子さんはかつて私に、「さぁ、私はあなたにバトンを渡しましたよ。あなたは、誰に渡しますか」と仰いました。いくら立派なバトンであっても手渡さなければ意味がありません。握ったままでは、自分ひとりで抱え込んでいたのでは、時計の針は止まったままになってしまいます。マスメディアの世界に生きて来た私は、常にひとりでも多くの方々に「バトン」を手渡すことを念頭に置いて来ました。私にとっての「バトン」とは、「平和」の尊さ。被爆国であり、78年もの長きにわたり「平和」を享受して来た私たち日本人でなければ伝えることが出来ない人類にとって大切な”徳”です。
今年8月9日、鈴木史朗長崎市長は『長崎平和宣言』の中で、「私は、両親ともに被爆者である被爆二世です。『長崎を最後の被爆地に』するため、私を含めた次の世代が被爆者の思いをしっかりと受け継ぎ、平和のバトンを未来につないでゆきます」と、力強く宣言されました。
「バトン」が、また繋がりました。「ことば」が独り歩きを始めました。不器用でもいい、言葉足らずでもいい。手渡すことによって初めて、想いの丈は伝わります。戦後78年の夏。炎天下にも関わらず、一脈の涼風が感じられた刹那でした。