20230804-1.jpg
最後の「ミス・アトミックボム」リー・メリンさん。写真家ドン・イングリッシュさんが撮影したこの写真は全米に配信され、人気を博しました。ラスベガス出身のロック・バンド ザ・キラーズ (The Killers) が2012年 (平成24年) に発表した『Miss Atomic Bomb』のジャケットにもこの写真が使われていました。

 

欲望の街 (Sin City) 米ラスベガスの北西約105キロに位置するネバダ核実験場 (Nevada Test Site) では、開設された1951年 (昭和26年) 1月11日から1992年 (平成4年) に至るまで、928回にも上る核実験が実施されました (内、828回は地下核実験)。

同州が実験場に選ばれた理由は当時、その87%以上が国有地であり、1930年 (昭和5年) の国勢調査によれば人口は僅か9万1,000人。ラスベガスも約5,000人に過ぎず、降水量の少ない広大な荒地が拡がっていたことにありました。また北米におけるウラン産出の96%を占めるコロラド高原と隣接していたことも大きな要因となりました。

 

原爆投下が太平洋戦争を早期終結させたといった官製プロパガンダが功を奏し、米ソ間の核開発競争が激化する中、核兵器はパクス・アメリカーナ (Pax Americana) の男性的シンボルとして米国民には好意的に受け止められていました。こうした類い希なる”キラー・コンテンツ”を、ギャンブル以外のエンターテイメントを模索していた魔都ラスベガスのビジネス・セクターが見逃すはずもありません。

 

 ラスベガスの歓楽街から望むキノコ雲。

 

我が国同様、米国民も被爆の実相はまったく知らされていなかったため、原爆は同国の大衆文化 (Popular Culture) にも多大な影響を及ぼしました。原爆を扱った初めてのハリウッド映画は1945年9月11日に全米で封切られた『Gメン対間諜』 (監督: ヘンリー・ハサウェイ 原題: The House on 92nd Street)でした。原爆をB級スパイ映画のテーマに据えること自体、放射能のヒトや環境への影響を、彼らがいかに軽視していたかがわかります。

ネバダ州では51年以降、商工会議所が音頭を取り観光客誘致に乗り出します。核実験を”鑑賞”する「夜明けのパーティー」(Dawn Parties) が毎回催され、翌年からは核実験のテレビ中継が始まったこともあり、”原爆ブーム”は加熱の一途を辿ります。

この頃に登場したのが「ミス・アトミックボム」(Miss. Atomic Bomb) と称された美人コンテストです (当初はAtomic Blast、「原爆の突風」と銘打たれていました)。52年から57年まで開催されていた同・コンテストには、ラスベガスのショーガールたちがこぞって応募したため、核実験をエンターテイメントとして扱うだけではなく、ネバダ核実験場に配属されていた米海兵隊員を慰問する性的シンボル、ピンナップガール (Pin-up Girl) としても機能していました。

初代女王はキャンディス・キングさん (Candyce King)。地元新聞は彼女を、「致命的な原子粒子ではなく、愛らしさを放射する」 (radiating loveliness instead of deadly atomic particles) と持て囃します。最後の優勝者はラスベガス『サンズ・ホテル』の舞台で踊っていたリー・メリンさん (Lee Merlin) でした。彼女は、キノコ雲の形にカットされたコットンを縫い付けた水着を身につけ、満面の笑顔で写真撮影に臨んでいます。

こうした無邪気な熱狂は、やがてキューバ危機 (1962年) の勃発により急速に下火となって行きます。それは、米国人が漸く核兵器の怖ろしさを実感し始めた時代でした。ちょうどその頃、広島から米国へ25人のうら若き女性たちが渡っていました (1955年)。原爆乙女 (Hiroshima Girls)。原爆の熱線により顔や腕に深刻なケロイドを負い、ニューヨーク市のマウントサイナイ病院で治療を受けるための渡米でした。同じ独身女性でも、日米では原爆の光と影を背負っていました。

 

先月、全米で封切られた”原爆の父”J・ロバート・オッペンハイマー博士の半生を描いた米映画『オッペンハイマー』 (Oppenheimer) と、同日公開された人気ファッションドール、いわゆるバービー人形の世界を実写化した『バービー』(Barbie) を掛け合わせた造語バーベンハイマー (#Barbenheimer) がネット上で炎上し、配給会社が謝罪する事態に陥りました。

ある意味、大方の米国市民の核兵器に対する意識は、「ミス・アトミックボム」の時代とさほど変わらない。原爆投下の是非以前に、核兵器の非人道性や残虐性に対する基礎的知識が乏しいと云わざるを得ません。これが現実です。

それは、米国人のみならず戦後生まれの我々日本人にとっても同じことです。なぜ核兵器が”悪魔の兵器”なのか。明確に語れる人間は最早殆どいません。”被爆者なき時代”を目前に控え、被爆の実相を伝える使命を担った我々も今、大きな曲がり角に差し掛かっています。広島市を瞬時にして消し去った原爆が投下された78年前のあの日まで、あと2日。

 

1955年の優勝者リンダ・ローソンさん (Linda Lawson)。王冠は、キノコ雲をかたどったデザインでした。彼女はその後、幾つものテレビドラマに端役で出演し昨年5月、86歳で亡くなりました。