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暮れなずむ広島。この街と、契りを結んだのは2015年 (平成27年) 5月のことでした。あれから、幾度となくこの地を訪れましたがその度に、哀しい哉、のっぺらぼうと化して行く様を”目撃”して来たように思います。街行く人々の顔から”個”が消え、被爆者の姿が失われて行くに従い、広島としてのアイデンティティも薄れて行った。”あの日”から79年を経て広島は、一体どこへ向かおうとしているのでしょうか。

 

こちらは、2019年 (平成31年) 6月14日に綴った拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の「あとがき」からの抜粋です。執筆当時の「断絶」から、再び「停滞」へ。おそらくこの凪は、この地に居座り続けることでしょう。あと何年も、何年も…。

 

 

二〇二二年、新たに生まれ変わった広島は喜寿を迎える。原爆投下により、かつて「七五年は草木も生えん」と云われたこの街は、戦後、奇跡の復興を遂げた。まるで不死鳥の如く両の翼を大きく拡げ、力の限り羽ばたかせ、そして見事なまでに蘇った。

そこには、原爆によって尊い命を無惨にも奪われた方々の想いを胸に、文字通り、反吐が出るほどの辛苦に堪え、血の汗を流しながら復興に立ち向かい、何度となく挫けてはまた立ち上がり、凛として前を向いて歩んだ、誇り高き多くの人々の足跡が残されていた。

 

取材を通して、「被爆体験を風化させてはならない」といった声を何度も耳にした。言うまでもなく、原爆投下という人類にとって最も醜悪かつ残忍な”負の歴史”は、決して忘れてはならない。風化させてはならない。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも広く、永く伝えてゆく責務を今、この世に生かされ、平和を享受している我々は負っている。

しかしながら被爆者、残された遺族、そして共に笑い、泣いた竹馬の友や愛しいひとを亡くされた方々にとって原爆体験は、永遠に”風化”することはない。被爆作家 原民喜が綴ったように、

「自分のために生きるな。死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ」 (『鎮魂歌』より) といった心持ちから、一瞬たりとも逃れることはできない。”風化”とは、飽くまでも当事者ではない私を始めとする一介の傍観者に向けられた警句である。

七〇年余りもの歳月を経て、被爆者の大半がすでにこの世を去り、語り部の多くが老境を迎えている。いかに事実を伝承して行くか、どのように彼らの想いを受け継ぎ、彼らの願いを実現させて行くか。我々はとてつもなく高く、峻険に聳え立つ障壁と相対している。

 

私は、広島で生まれたわけでも、育ったわけでもない。また、高度経済成長期の鳥羽口に生を受けた戦争の「せ」の字も知らない世代でもある。口には出さずとも、

「なぜ、あんたが広島を描くんじゃ」と、訝しんだ方もおられたに違いない。私が、逆の立場であれば、

「広島もん以外に、広島の苦しみなんぞわかりゃせん」と、憤ったかも知れない。

原爆詩人の豊田清史氏が、四七年前に怒りを込めて吐露した、

「先入観で固まった観念の形骸だけが、カラ回り。だから被爆者は二十五年目 (当時) の”創作”を見ると”あんなものじゃなかった”と、絶望的なつぶやきをもらす。どうせ、わかってもらえないーそれが広島の夏、広島の孤独です」といった言葉の重みをしっかと受け止めたい。

 

だが、私はこうも思う。傲岸不遜を承知の上で敢えて申し上げれば、私のような広島とは無縁の、また戦争体験もない人間が核兵器の非人道性について、また戦後復興に尽力された名も無き方々の偉業に着目し、時として憤怒し、不覚にも落涙し、改めて平和の尊さに気づくこと。それこそが原爆によって不本意にも命を奪われてしまった方々が望まれたことだったのではないかと。

 

戦争のない平和な国、そして世界を作ること。私は、彼らの熱き魂の申し子であることを誇りに思う。また後世に、平和がいかに崇高なものであるかを語り継ぐ志を持ったひとりの日本人でありたいと願う。想いの丈が風に乗り、海を渡り、山を超え、遙かなる地に種を落とし、やがて花を咲かせれば、”風化”とはいわない、いわせない。時空を超えれば歴史は、現実となって蘇る。

 

記録は、体験者の記憶を鮮やかに蘇らせる。また、同じ時間と空間を共有していない者にも真実は、まるでその時、その場に自らが両の足で立ち、かっとばかりに眼を見開いていたかのような疑似体験をも宿らせるであろう。唯一、「想像力」だけが武器となる。そう教えて下さったのは被爆者であり、長年にわたり被爆体験を世界に向けて真摯に伝え続けて来られた小倉桂子氏であった。

被爆体験の共有など決してできるはずもないことを自覚しつつも、そうしたロマンチックな幻想に賭け、私は被爆都市 広島の復興に身を捧げた人々の生き様を、同時代を共に生きたかの如く夢想し、轍を辿り、新たに掘り起こした史実と解釈を交えてこの作品を編んだ。

 

本作を執筆すべく心に決めた端緒は東日本大震災後、宮城、福島両県を訪れ、筆舌に尽くしがたい惨禍の傷跡に間近に接し、彼の地に残された人々の悲愴な叫びを耳にし、改めて自らの生き方、表現者としての本分を問うたことにあった。

広島で出会った被爆者の方々からは二〇一一年三月十一日、津波にのみ込まれた被災地を映し出すテレビ映像を見た刹那、

「あの時と同じ光景だ・・・」と戦慄を覚え、身体の震えが止まらなかったとも伺った。

こうした自らの取材経験を踏まえて、関東大震災の復興計画に学んだという広島の人々の貴重な経験が今、この時にも大震災からの復興に苦悶し、葛藤しておられる方々に幾ばくかの勇気と希望、そして示唆を与えてくれるのではないかとの切なる願いがあった。

 

それだけではない。この瞬間にも世界の片隅では銃声が鳴り響き、砲弾が炸裂し、多くの人々が傷つき、瓦礫の山を前に立ち尽くしている。いかに祖国を蘇らせるか。途方に暮れる彼らにとっても広島は、「約束の地」となる。

また、為政者によって『海の向こうで戦争が始まる』と盛んに喧伝されるこの時代、我々が営々と、無骨なまでに築き上げて来た「平和」とは果たして何だったのか、我々日本人は一体どこへ向かおうとしているのか。被害者となり加害者ともなった凄惨な殺し合い、いのちのやり取りを経て、国の基本理念にいみじくも「平和」の二文字を掲げた我々は今一度、すべてが始まった”あの朝”へ、原点に立ち返らなければならない。

 

歴史は巡る。悲しいかな、人類が諍いに倦み、大自然の脅威から逃れられることは、これからもないであろう。悲劇の連鎖は止まらない。核分裂の理論的基礎を築いたアルベール・アインシュタインは、第三次世界大戦がどのようなものになるかと問われ、

「わからない」と答えたが、第四次世界大戦は、

「人類は木と石で闘うことになるだろう」と言った。再び、世界を巻き込む戦乱に見舞われれば核兵器によって、我々は何もかも失うだろうと。大天使ガブリエルが吹き鳴らす角笛の音と共に、文明は悉く消滅する。広島、そして長崎の経験は、我々日本人のみならず人類にとって、産業革命に端を発した近代という時代の在り方を、「生きる」ことの根源的な意味を問い直す分水嶺ともなった。

「平和」は、繭の如く危うく、儚い。少しでも目を離せば、指の隙間からさらさらと音もなく零れ落ち、いつの間にやら雲散霧消してしまう。それでも我々は、下を向くわけにはいかない。過去に学び、少しでもより良き世界を創るべく希求することから始めなければならない。一歩、そしてまた一歩。長く険しい道程も、平凡かつ不器用な民の一挙手一投足、拙い一語から始まることを信じて。

 

「平和都市」を標榜する広島、そして此の地が辿った戦後復興は、取りも直さず「平和憲法」を旗印に、焦土から甦った日本という国の写し絵そのものである。過去、そして現在の広島をつぶさに見れば、この国の姿、行く末が仄見えて来る。それは、過去における「被爆体験の伝承」だけに留まらず、未来をも見据えた「戦後復興の継承」という新たな責務へと繋がって行く。

戦後七〇年余りもの長きにわたり我々は、幸運なことにも戦争によってひとりのいのちも奪わず、奪われることもなかった。こうした平和国家が一幕限りの砂上の楼閣と帰するのか、はたまた恒久的な天上庭園へと誘われるのかは、取りも直さずこれからを生きる我々の、心の有り様次第であろう。

 

(拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の「あとがき」より抜粋)

 

 

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