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   先月28日、私にとっての大恩人であった被爆者の兒玉光雄さんがお亡くなりになりました。兒玉さんには拙著『平和のバトン〜広島の高校生たちが描いた86日の記憶』の取材で大変お世話になりました。兒玉さんのお力添えなくしては、この作品が生まれることはありませんでした。

 

   兒玉さんに初めてお目にかかったのは4年前の今月26日、広島市留学生会館で開かれた被爆体験講話の折でした。当時、拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の取材で幾度となく広島を訪れていた私は、すでに彼のオーラル・ヒストリーを読み込んでいたため是非、直接お話を伺いたいと参加を申し入れたのでした。

登壇された兒玉さんは、驚くほど矍鑠とされていただけではなくエネルギッシュに、そしてロジカルに、時にはジョークを交えて、放射線によって切断された自らの染色体の写真をスクリーンに大きく映し出しながら切々と原爆の怖ろしさを説いておられました。私は文字通り、細胞単位に至るまで自身のすべてを曝け出し、体験を語られる兒玉さんの姿、そしてその執念に鬼気迫るものを感じました。その後のお付き合いで、それは「生き残った者、生かされた者」の覚悟であり矜持であったと知らされます。「原爆の非人道性を知りたければ、わしを見りゃええ。わしの染色体を見りゃあええ」

  

私は新聞記者でもテレビ・ディレクターでもない一作家なので、締切は飽くまでも自分の中にあります。よって、必要とあれば取材相手とは何度もお目にかかり、先方が納得されるまで何時間でもお話を伺います。単純極まりない方法ですが、私如きが人様の人生の一端を伺わせて頂くわけですから、それが最低限の礼儀だと心得ています。

  そのためか取材をさせて頂いた方々とはその後、家族ぐるみのお付き合いをさせて頂くことも少なくありません。兒玉さんとも、広島を訪れる度にお目にかかり、世間話にも華を咲かせました。ある時、兒玉さんが平成28年に著された『HIBAKUSHA(英語版)について相談をお受けしました。自費出版されていることに驚いた私は、増刷の折にはクラウドファンディングを検討されてはとお薦めしました。また、欧米では必ず注目を浴びる貴重な個人記録であるため、元・駐日米国大使であったキャロライン・ケネディ女史に献本されるよう、僭越ながら助言もさせて頂きました。

 

  兒玉さんの高校生たちとの接し方は、非常に緻密でありながらも懐の深いものでした。幼少期から画家になりたかったという兒玉さんは絵心をお持ちであったため、高校生たちに描いてもらう光景のデッサンを予め示しておられました。当時の情景や風俗がまったくわからない子供たちにとって、どれほど心強かったことか。聞き取りは通常、月に一度、同校か広島平和記念資料館で行われますが、兒玉さんは気づいた点があれば、子供たちに何度もファックスで参考資料を送ってもいらっしゃいました。

 

   一方で、子供たちを単なる”絵描き”として扱うことなく、「上手く描けんかっても、それは私の説明が足らんかったからじゃ。あんたらは気にせんで、思いっきり描けばええ。どうしても描けんかったら、私も手を入れちゃるから、合作にすればええ」とまで云い、子供たちを励ましておられました。

お子様がいらっしゃらなかった兒玉さんにとって基町高校の生徒たちは、ご自身の息子、娘、孫にように映っていたのかも知れません。また私には、この「次世代と描く原爆の絵」を自らの”遺書”として捉えておられたようにも感じられました。兒玉さんは「私は、あと何年生きられるかわからんが、放射能がいかに人の生きる道に反し、人間の骨の髄まで傷つけるかを、これからも生き証人として訴え続けてゆくつもりじゃ」と度々、私に話して下さいました。

 

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広島市立基町高校の生徒と打ち合わせをする在りし日の兒玉光雄さん(平成291)

 

兒玉さん、お疲れ様でした。皮膚や胃、直腸、甲状腺ガンなど21回にも及ぶ大手術を受けたにも関わらず、凛として前を向き、べらんめえ調で話されるあなたの雄姿を、私は決して忘れません。

本当の”闘士”とは、あなたのことです。男前とは、あなたのことです。あなたの”子供たち”は必ずや、あなたの気高き意志を受け継ぎ、平和の尊さを後世に語り継いで行くことでしょう。安らかにお眠り下さい。奥様も大変なご苦労をされたこととお察し致します。どうかお力落としなさいませぬように。合掌。