写真は、2009年にベトナム社会主義共和国を再訪した当時のものです。初めの頃に訪れた際は、すべてコダクローム(リバーサルフィルム)で撮っているためデジタル化していません。
これまで50ヶ国以上の国々を旅して来たため屡々、「どの国がお薦めですか?」と尋ねられます。私の場合は、コーヒーとパンが美味しいかどうか、が基準となります。どうしても日本以外の国に永住覚悟で居住しなければならない、となれば私は迷わず、イタリア共和国かベトナム社会主義共和国を選ぶでしょう。
私が初めてベトナムの地を踏んだのは1987年のことでした(それ以来、少なくとも5回は訪れています)。同国が未だ鎖国状態にあった当時、日本に大使館はなく、タイのバンコクにあった領事館で、ベトナムの友好団体に発行して頂いた推薦状を添えて”観光ビザ”を申請し(私のようなフリーランス・ジャーナリストの場合、報道目的ではまず入国は許されませんでした)、審査結果が出るまで気長に待たなければなりませんでした。
西洋諸国とは国交断絶状態にあった当時のベトナムは、世界最貧国の烙印を押されていました(今であれば朝鮮民主主義人民共和国の国内事情を想像して頂ければ近しいものがあります)。そのためサイゴン(すでにホーチミン市に改名されていましたが、現地の人々は愛着のあるこの旧名を使っていました)の中心部、レ・ロイ通りにも車の姿は殆どなく、庶民の交通手段は自転車でした。羽振りの良い者は得意げにホンダのスーパーカブを乗り回していた時代です。
路上には戦災によって両足を失った青年が物乞いし、歩ければ何人もの子供たちが「ワン・ダラー、ワン・ダラー!」と云いながら纏わりつき、何台ものシクロ(Cyclo)と呼ばれる三輪車の”タクシー”が何百メートルも後を追って来ました。屋台で売られていた代表的なお土産は、ベトナム戦争時代に米兵からせしめたジッポーのライターか、ベトナム共和国時代(南ベトナム)に発行された記念切手、それにアルミの缶ビールを器用に切り貼りして”工作”した戦闘機や戦艦の飾り物でした。
電力事情も極めて悪く、停電は日常茶飯事。夜になれば街頭も消され、市中心街も漆黒の闇に包まれました。夜半、人っ子一人いない大通りを歩いていると(唐突に夜間外出禁止令が出されます)、何となく視線を感じる。ふと10メートル以上はあるレ・ロイ通りの反対側に目をやると、幾つもの目が私をじっと見詰めていました。まるで暗闇に潜む猫のように、キラキラと瞳が輝いているのがわかります。当然のことながら外国人である私には、私服警官が四六時中、張り付いていたのでした。
それでも私はサイゴンの街、人々にひどく魅せられました。かつて作家・開高健がそうしたように、仏領時代に建てられたコロニアル・スタイルの『ホテル・マジェスティック』(正式名称は『Khách Sạn Cửu Long』)の屋上にある『Mバー』でフローズン・ダイキリを傾け、滔々と流れるメコン川をぼんやりと眺めながら、この状況下で自分には一体何が取材出来るだろう? と頭を巡らせていました。悲しき熱帯へようこそ。Bienvenue au TRISTES TROPIQUES!