20231101-1.jpg
瓦礫の山と化したパレスチナ自治区ガザ市街。

 

日本のマスメディアはなぜか「戦闘」の詳細を伝えません。ロシア連邦によるウクライナへの軍事侵攻においても同じくですが、今回のイスラエル国とイスラム原理主義組織ハマスとの「紛争」についても「大規模な攻撃」と報じるだけで、戦闘地域でどのような作戦行動が取られ、どの部隊がどの地点でどのように展開しているのか。公表済みの軍事情報でさえ伝えることは皆無と云って良いでしょう。戦争報道においては被害を報じるのみならず、「戦略」を確認することで兵力の規模を把握し、投入されている武器弾薬の威力を分析。その背景にある政治的思惑を推し量ることが極めて重要であるにも関わらず。

 

パレスチナ自治区ガザに対して陸海空から猛烈な攻撃を加えているイスラエル国防軍 (IDF) はテルアビブで連日、記者会見を開いています。海外の報道を見る限り、IDF はかなり詳細に”事後報告”を行っているようです。その場に日本の特派員は参加していないのか? 参加していても軍事に関する知識が乏しいため理解出来ないのか? 現場またはデスクが日本の読者、視聴者には必要のない情報だと判断しているのか?

日本のマスメディアが起用するいわゆる有識者やコメンテーターも、イスラエル史またはパレスチナ問題を専門とする学者や現地で活動を行っているNGO関係者が大半を占めています。歴史的、政治的背景を知ることは極めて重要です。凄惨なヒューマン・ストーリーを報じ、シンパシーを高めることも大切であることは同業者として理解出来ます。しかしながら「戦闘」は今、オンタイムで進行しています。「戦争」は机上の空論ではありません。そこでは実際に殺傷能力の極めて高い重火器が用いられ、多くの人々が死傷しています。「戦争」の真の実相を理解せずして、紛争解決の糸口は見出せません。

 

イスラム原理主義組織ハマスがテルアビブに撃ち込むロケット弾を、世界最強の防空システム”アイアンドーム”によって撃墜するイスラエル国防軍。

 

「軍事」を知らずして「戦争」は語れない。「戦争」を知らずして「平和」も語れません。戦後、我が国は軍国主義に対する拭い難いアレルギーが災いし、「戦争」のリアリズムから極力、目を逸らして来ました。マスメディアも、「軍事」を論じれば軍国主義者と見做されるといったトラウマから逃れられず、またマニアックといったレッテルを貼られることを嫌い、意識的にエキスパートを育てては来ませんでした。

そのため軍事関連情報は殆ど流通することなく学ぶ場もないため (国内で安全保障を含む”軍事学” Military Scienceを系統的に教えている教育機関は防衛大学校以外にはありません)、平和運動を行っている方々で「軍事」に精通している人間と出会うことはまずありません。

欧米では逆に「理」を重んじます。「平和」を希求するからこそ「軍事」を徹底的に研究し、軍事予算(我が国の場合は防衛予算) に不備があればピンポイントで追求する。不必要な兵器製造・購入には厳しい目を向ける。具体的な項目、使途を指摘することなく大雑把に「防衛費43兆円に反対!」などと糾弾することはあり得ない。なぜならば、彼らは”金の流れ”こそが「戦争」の本質であることを熟知しているからです。

 

我が国の平和運動の脆弱さは、こうしたリアリズムの欠如に起因しています。日本は、アジア・太平洋戦争の敗戦国であり、1945年 (昭和20年) 10月24日に効力が発生した国際連合憲章の第17章「安全保障の過渡的規定」の第107条「敵国に関する行動」によって、現在に至るまで旧・連合国の「敵国」と見做されています (旧敵国条項)。主に1990年代から、旧・大日本帝国陸海軍ならびに日本国民の「加害」、戦争犯罪が盛んに語られるようになりましたが、「加害」の歴史を忘却の彼方に押しやっているのは実のところ我々日本人だけであり、アジア諸国のみならず世界も決して忘れてはいません。

一方で広島、長崎に、戦時において初の大量無差別殺人兵器である原子爆弾を投下され、我々は「戦争」の非人道性を誰よりも知っており、「戦争」を語る資格は十分にあります。それにも関わらず、自らの「被害」、「加害」に無関心となってしまった理由のひとつとして、「軍事」に対する圧倒的な知識の欠如が挙げられます。「情」でしか戦争の惨禍を語れず、「平和」の尊さを論じられないがために、その言動には説得力が伴わない (「平和」や「人権」といった抽象概念にのみ頼るのが我が国の平和運動家の特徴です)。”核抑止力”ひとつを取ってみても賛成派、反対派を問わずロジカルに理論武装が出来ていないため、いとも簡単に論破されてしまいます。

 

「彼を知り己を知れば百戰殆からず」 (知彼知己 百戦不殆) と喝破したのは孫子です。彼はまた「戰百勝は善の善なる者にあらざるなり。戰わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」 (是故百戦百勝 非善之善者也 不戦而屈人之兵 善之善者也) とも説いています (『孫子』の謀攻より)。

つまり「軍事」を知ることなくして「不戦」は望めない。こうした自明の理さえ理解していない。または学習することを避け、拒んで来たことが、現在の我々日本人の茫洋たる姿を作り上げたとも謂えるでしょう。