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常に背筋が伸びていたツーズー病院のフォン医師は、ベトちゃんドクちゃんにとって慈悲深い母親のような存在でした。

 

  私がベトナム社会主義共和国を再訪したのは1988年2月。シクロに乗り、タマリンドが植えられたサイゴンの街路を駆け抜け、向かったのはツーズー産科小児科病院 (T Dũ Bnh Vin)でした。

 

  枯葉剤。ベトナム戦争当時、米軍はダイオキシンを含む化学剤を大量に、このアジアの小国に散布しました。街、農村、森林…ところ構わず無差別に、猛毒を撒き散らしました。その目的は、鬱蒼と生い茂ったジャングルに守られたホーチミン・ルート周辺に潜んでいたベトナム民族同盟会(ベトミン)の解放戦線兵士を殲滅することにありました。枯葉剤の90%以上は1966年から69年の間に使用されています(平均11回/日)。米コロンビア大学の調査によると、この作戦によって 210万から480万人もの人々がダイオキシンに汚染されたと云います。

 

  ダイオキシンの怖ろしさは一旦、人体に摂取されると、その半分が体外へ排出されるまでに 7.1年から 9.6年もの歳月を要するということです(半減期)。中でもオレンジ剤 (Agent Orange) が集中的に散布されたベトナム南部メコンデルタに位置するダナンやビエンホア、ソンベなどでは、母乳から高濃度のダイオキシンを検出されました。

米国内で残虐なランチハンド作戦 (Operation Ranch Hand)、いわゆる枯葉作戦に対する批判の声が高まり、ガンや流産、先天性障害との関連性も明らかとなり、リチャード・ニクソン大統領が枯葉剤の散布停止を命じたのは1971年になってからのことです(ちなみにこの作戦に1961年、ゴーサインを出したのはジョン・F・ケネディ大統領でした)。

 

ツーズー病院には、障がいを持って生まれた子供たちが何10名も保護されていました。枯葉剤の影響で結合双生児として生まれたベトちゃんドクちゃんに対する関心が日本国内でも高まっていた頃合いです。私は、廊下に座り込んだ何組もの母子の間を縫うようにして進み、同年10月に日本赤十字社の支援によって分離手術が行われた彼らと、この病院で出会いました。弟のドクちゃんが、私の顔を見るなり「こんにちは!」と、日本語で話しかけて来たのが印象的でした。

主治医のフォン女医は、「こちらも日本の皆さんにしっかり伝えて下さいね」と、穏やかに微笑むと、私にホルマリン漬けにされた無脳症や無眼球といった死産、流産した胎児たちも見せてくれました。日焼けした彼女はゴム製の手作りサンダルをペタペタと鳴らしながら他の病室へと私を招き入れ、もうひと組の結合双生児ソンちゃんファーちゃんを紹介して下さいました。双生児の癒合は2,000万分娩に1例の確率とされていますが、彼らはベトナムでは25年間で30例を超えたその1組でした(その後、彼らは亡くなっています)。

 

 私が初めて撮影したソンちゃんファーちゃんの写真は”第二のベトちゃんドクちゃん”として全国に配信されました。

 

まだ駆け出しであった当時の私の頭の中には、「報道」の二文字しかありませんでした。広島・長崎における原爆症の実態や原爆小頭症患者と彼らの親によって組織された『きのこの会』の存在も、悔やまれることに今のように深い知識を持ち合わせてはいませんでした。もしも、若くして卓越した見識があったならば、より意義のある記事が書けたかも知れない。一方で、両者を繋げられる知恵があれば、ジャーナリストとしておそらく今とは異なった方向へ進んでいたことでしょう。

 

人生は、選択の連続です。後から振り返ればあの時、もうひとつの道を選択していたらどうなっていただろうか、と思うことが屡々あります。私は厳重な報道管制下におけるベトナム取材から、多くのものを得たと同時に、ひとつの岐路に立っていたように思います。

 

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