20200807-1.jpg
第1回『平和祭』で「平和宣言」を読み上げる浜井信三広島市長。

 

73年前の8月6日。広島で記念すべき第1回『平和祭』(現・広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)が開催された昭和22年。街は、鎮魂と魂振の狭間で揺れ動いていました。

 

公募によって『平和広場』と名付けられた”慈仙寺の鼻”において式典は、粛々と執り行われました。一方、新天地界隈では花笠を被った70名ほどのうら若き女性たちが再建されたばかりの流川銀座商店街を、即席の詠み人知らずの『平和音頭』に合わせて練り歩き、鷹野橋南栄会も負けじと神輿を繰り出しました。

広島では夜が更けるまで、被爆者たちが石の沈黙を守る横丁で、褻枯れゆく死者の”たましい”を振り起こす、または生き残った者たちの”たましい”を繋ぎ止めるべく人々は嬌声を上げ、安酒を喰らい、紅い襦袢の裾を絡げて、ひたすら燥いだ。 鎮魂と魂振との剥離、軋轢は、すでにこの時から始まっていた」(拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』より)。

 

聖と俗の混在。鎮魂と魂振、そして混沌。メメント・モリ(memento mori)。死を想い、死者を弔うべき命日のあられもない狂躁に、眉をひそめる市民も少なくなく、主催した平和祭協会には批判の声が相次いだと云います。

しかしながらこの日、この地には、軽佻浮薄と指弾されようが酸鼻極まる記憶をひと時であれ忘れたい、いまだ銀シャリさえ満足に口にはできない常日頃の鬱憤を晴らしたい、といった市井の人々の切なる願いも噴き上がっていたと云えるでしょう。

 

20200807-2.jpg

第1回『平和祭』に合わせて市内では神輿行列も出るなどお祭り騒ぎに。

 

そして、被爆75年目の8月6日。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、式典規模は大幅に縮小され、入市人口も激減したこの街は、おそらくは戦後、最も静謐な一日を迎えたのではないでしょうか。

例年は、300名を超える市民合唱団によって唱われる『ひろしま平和の歌』。今年は、広島市立舟入高校の3名の女生徒たちによって歌われました。清らかな歌声が広島平和記念公園に響き渡る。蝉の音が、まるで彼女らと合唱しているかのように谺していました。

「75年は草木も生えん」と云われた広島。歴史的な節目を経て、この街は、新たな一歩を静かに踏み出しました。この街のアイデンティティの構築に繋がるこれまでとは違った一歩を創造出来るかどうか。広島市民の姿勢と覚悟にかかっています。