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拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』を上梓するにあたり、書籍の「顔」となる表紙はどうしたものかと担当編集者と議論を重ねました。当初、私は「原爆ドーム」と「折り鶴」の画像だけは避けたいと考えていました。云うまでもなくこのふたつの表象は善しにつけ悪しきにつけ、広島市を象徴するシンボルです。そのため広島関連本の凡そ 8割方には、そのどちらかのイメージが表紙に使われています。

しかしながら拙著は、広島市が辿った奇跡の戦後復興を描いた初めてのノンフィクション作品となるため、圧倒的なオーラを纏った、または旧態依然とした「ヒロシマ」を想起させる手垢のついたアイコンは敢えて用いたくない、との思いがありました (結果的には、写真家の宮角孝雄さんが撮られた原爆ドームを背景に、広島の若者たちが目を瞑って平和を祈る、といった前向きで力強い作品と出会えたため、これを採用させて頂きました)。

 

「原爆ドーム=被爆」と「折り鶴=原爆被害」が、類い希なるアイコンであることは言を俟ちません。ヴィジュアル・メッセージとしても極めて訴求力が高い。原爆ドームは1966年に広島市議会によって永久保存が決議され、「折り鶴」はオーストリア人ジャーナリスト ロベルト・ユンクがその著書『廃墟の光・甦るヒロシマ』(1961年)の中で佐々木禎子さんのエピソードを綴ったことから被爆地・広島のシンボルとして認知され、定着して行きます。

しかしながら、改めて思い返してみればこのふたつのシンボルは、半世紀以上も前に誕生したものです。その後、広島市の歴史、伝統、風土を的確に現すイメージは、ただのひとつも生み出されてはいません (云うまでもなく「お好み焼き」や「カープ」は、いわゆるサブ・カルチャーの範疇にあるためここでは除外します)。

 

広島は、京都や奈良とは異なり、近世に発展を遂げた都市です。極論すれば、現代史 (被爆後)において初めて、世界的に重要な意味を持つ街となったとも云えるでしょう。半世紀以上にわたり”第三のアイコン”が生まれなかったことからも、”広島の停滞”を見て取ることが出来ます。

「原爆ドーム」(過去〜) や「折り鶴」(〜現在) といった”負の遺産”だけに留まることなく、国際平和文化都市・広島市が担う歴史的責務を体現しつつも、未来を見据えた新たなシンボルとは何か? 広島市が掲げる3本の柱 (人口の将来展望、世界に輝く平和のまち、国際的に開かれた活力あるまち)をいかにわかりやすく効果的に表現するか? こうした思索を巡らせることが、広島市ならではのオリジナル・コンテンツを再発見、再構築するきっかけともなり得るでしょう。

広島市の表記も「廣島」から「広島」、「ヒロシマ」を経て、次はどのように著すべきか? 温故知新。今一度、原点に立ち返り、アイデンティティを見詰め直すべき時が迫っているように思われます。