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   世界最貧国のレッテルが貼られていた1980年代後半のベトナム社会主義共和国。米国を始めとする西側諸国による経済制裁や中越国境紛争によって鎖国状態へ追い込まれていた同国からは計画経済の失敗、戦後復興の遅延、社会主義国の限界といった悲観的なニュースだけしか聞こえて来ませんでした。しかしながら、実際に現地を歩けば、汗水垂らして必死に生きる人々や貧しいながらも笑顔を絶やさない多くの人々と出会いました。

 

「何か、光明が見出せるトピックはないだろうか?」 

サイゴン市内を足繁く徘徊し、ニュースを嗅ぎ廻るうちに、「戦後初のミス・コンテスト開催」といった耳寄りな情報を手に入れることが出来ました。

「これだ!」 

早速、カメラ片手に会場を訪れると「日本から取材が来た♪」と、主催者はてんやわんやの大騒ぎ。市長主催のレセプションにも招いて下さいました。

 

ベトナム戦争終結後、初めて開催されたミス・コンテストの応募者数は260人余り。控え室を覗くと、破格の優勝賞金500万ドン(当時の為替レートで約18万円)を目指して、すでに”おんなたちの戦い”が繰り広げられていました。母親はもちろんのこと親族の女性陣でガッチリ脇を固め、「このアイラインはインパクトがない!」だとか「こんな地味なアオヤイを (Áo dài: ベトナム南部ではアオザイをこのように発音します) 縫ったのは誰?」と姦しい一団がいるかと思えば、現地では知られたモデルなのでしょう。マネージャーを顎でこき使いながら煙草をくゆらす化粧が濃いめの美女など、様々な人間模様を垣間見ることが出来ました。

   最も印象に残ったのは、メコンデルタの小都市ミトー (Thành ph M Tho)からやって来た清楚な女子大生でした。純白のアオヤイに身を包んだ彼女は、「学生生活最後の想い出を作るために応募しました」とはにかんで見せます。コンテストが終わり、経済学を学んでいるという彼女は、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた恋人が漕ぐ自転車の荷台に乗り、アオヤイの裾を軽やかにはためかせながら、にこやかに帰って行きました。

 

  ミスコンは屡々、性差別の象徴として糾弾されます。云うまでもなく、女性を外見だけで”審査”するなど以ての外です。しかしながら、経済発展のある一時期において、ミスコンは多くの女性たちに勇気と自信を与えて来たのは事実です。被爆地・広島でも1948年には角梨枝子さんが初代ミス・ヒロシマに選ばれ、復興の鳥羽口に立った人々に明るい話題を提供しました(彼女はその後、東宝にスカウトされ、松竹に移籍した後は中村登監督の『夏子の冒険』等に主演し、人気を博しました)。

 

 

 

  この取材旅行では、写真エージェンシーのオリオン・プレスさんに写真と記事の受け口となって頂きました。デジタルが当たり前の現在では、ネット環境さえ整っていれば、写真であろうが動画であろうが瞬時に編集部へ送ることが出来ます。しかしながら当時はまだフィルムの時代。いかにして締切に間に合わせるかが、海外を渡り歩くカメラマンにとっては最大の懸案事項でした。

 

  そこで、特に戦地や紛争地帯を取材する報道カメラマンの間では、ある秘策が講じられていました。私もそれに倣い、サイゴンのタン・ソン・ニャット国際空港に早朝から陣取り、同国に唯一、乗り入れていたタイ航空のフライトアテンダントを待ち構えていました。彼女たちも事情は熟知していて、快くフィルムを受け取ってくれます。こうして成田空港で”緊急通関”に廻してもらい、編集部が手配したバイク便でピックアップしてもらうのが、現像前のフィルムを最もスピーディに送り届ける方法でした(お陰様でこの記事は、『AERA』誌を始め新聞各社に掲載されました)。

まだベトナムが、世界から隔絶されていた遠い昔の話です。おんなたちは、彼女たちのやり方で戦っていました。