20210211.jpg
 

 

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(TOCOG)の森喜朗会長による”女性蔑視発言”が、(日本国内では) 政界は元より財界をも巻き込む”大事件”に発展しつつあります。云うまでもなくこの問題発言は、彼が置かれている立場からすればあってはならない失言であり、決して許されるものではありません。

 

この”女性蔑視発言”について国際オリンピック委員会(IOC) は9日、公式ホームページにおいて声明を発表しています。これに対して日本のマスメディアは一斉に「IOCが態度を豹変」、「IOCが森会長に最後通牒」などと盛んに報じています。真偽のほどはどうか? マスメディアの報道を鵜呑みにすることなく、公開されている原文にあたってみましょう。

声明の中で IOCは、森会長の発言を”absolutely inappropriate”(全くもって不適切である)と断じ、「オリンピック・アジェンダ2020」によって IOCが推進して来た改革にそぐわない、と明確に苦言を呈しています。しかしながらここで IOCは、私が「東京五輪狂想曲 その①」で引用したオリンピック憲章の条項と併せて IOCが掲げる基本スタンスを改めて踏襲、再確認しており、取り立てて”豹変”したわけではありません。

また、「森会長はこの発言について謝罪し、撤回している。また、オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 (OCOG)も同様である」と事実のみを伝えており、森会長の辞任を促してもいません(理由は、前述の通りこれがあくまでも我が国の内政問題に属するからに他なりません)。日本のマスメディアは「そら見たことか」と書き立てていますが実際には、前日に報じられた IOCの見解と何ら変わりはありません。

 

こうした IOCのややもすれば曖昧とも受け取られかねない態度に不満を募らせている、またはこじらせている方々も少なくないようです。「親分がビシッと裁定してくれれば速やかに解決するものを!」といった、いかにも日本的な感情論が記事やネット上には溢れ返っています。気持ちはわかりますが悲しいかな、これもまた日本のマスメディアの勉強不足、そして啓蒙活動の未熟さが招いた結果だとも云えるでしょう。

 

IOCのスタンスを知るためには、まずもってオリンピックの歴史を学ぶ必要があります。それは何か? IOCの基本原則は、徹頭徹尾「政治には関わらない」ということです。参加国の主義主張や思想、信教、政治体制には一切コミットしない、という不文律です。

例えば、オーストラリア連邦の先住民族であるアボリジニのキャシー・フリーマン選手は、英連邦競技会の 400メートル走で初めて優勝。観客から手渡されたアボリジニの民族旗とオーストラリア連邦の国旗を両手にウィニングランを行いましたが、彼女のこの行為に対して同国の選手団長が、IOCのガイダンスに従い「オーストラリアの国旗だけを取って走るべきだった」とコメントし、物議を醸しました。

多様性を尊重する現代においては、時代錯誤も甚だしい極めて保守的な措置とも映りますが、IOCはいかなる理由があろうとも、政治的意味合いを持つシンボルをトラック内に持ち込むことを厳しく制限しています。その後、同国で開催されたオリンピック・シドニー大会 (2000年)でも、見事金メダルを獲得したフリーマン選手は再び、”ふたつの国旗”を掲げてトラックを一周しましたが、この際にはファン・アントニオ・サマランチIOC会長(当時)が「オリンピックは多文化主義を支持する」といった異例の声明を発表し、これを容認しました。当然のことのように思われますが実は、IOCの理念から云えばこの声明の方が寧ろ”特例”にあたります。

 

こうした IOCの頑ななまでの政治不介入主義は、「1936年」の苦い経験に起因しています。オリンピックの理念を脅かすナショナリズム、いわゆる国粋主義が国家レベルで台頭したのは、この年に開催された第11回ベルリン大会が初めてでした。同・大会のホスト国であったドイツ共和国は開会式で、国旗であり国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス・ドイツ)の党旗でもあった鉤十字 (ハーケンクロイツ)を掲げて入場行進に臨み、選手宣誓も「オリンピック旗」ではなく、この”国旗”を手にして行われました。

ナチス・ドイツは”平和の祭典”を巧みにプロパガンダの道具として利用し、世界に権勢を誇示しましたが、国際政治にナイーヴであった当時の IOCはこの蛮行を阻止することが出来なかった。オリンピックは、同・大会の興行的成功によって知名度を高めますが一方で、ナチス・ドイツの躍進に加担したという暗黒の歴史を背負うこととなります (詳細は拙著『国旗・国歌・国民〜スタジアムの熱狂と沈黙』をご一読下さい)。

こうした反省から、IOCは例え独裁国家であろうが、国を追われた難民であろうが、オリンピック憲章を遵守する限りにおいては参加を認め、その政治体制に口を挟むことはしないといった基本原則を設けました。IOCは屡々、「なぜあんなテロ国家の参加を認めるのだ!」と糾弾されて来ました。確かに歪な印象は否めませんし、わかりにくいスタンスですが、これが IOCが選択した中立(ニュートラル) の在り方なのです。

 

8日の衆院予算委員会で、立憲民主党の早稲田夕季議員が「(森会長の発言が) 国益に相応しくないなら続投すべきではないのではないか」と菅首相に質したところ、「それは私が判断する問題じゃない。組織委員会で人事を決める。独立した法人としての判断を私は尊重する立場だ」と答え、またぞろ非難の的となりました。菅首相を擁護するつもりはまったくありませんが、この件についてのみ云えば、「権力者がオリンピック関係者の進退には関与しない」といった意味合いから菅首相のスタンスは間違ってはいません。野党 3党が、問題解決のために政府に対して森会長の辞任を求めると報じられていますが、もしもこれが通れば逆に、IOCにしてみればオリンピック・ムーブメントへの政治介入と映り、看過出来ない事態ともなりかねません。何よりも今は、TOCOGそしてJOCの速やかな自浄作用が求められています。明日、開催が予定されているTOCOGの臨時会合「合同懇談会」の行方が気になるところです。

 

この問題を考えるにあたり感情に流されることなく、こうした基本事項は押さえておく必要があります。オリンピックは世界最大のスポーツ・イベントであるだけに、目先の国内事情だけに囚われていると、大局的な判断を見誤ります。

 

このページのトピック