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新型コロナウイルスの感染拡大により移動が大幅に制限されていたことから、先々月と先月。約2年振りの訪問となった広島で、私は軽い眩暈を覚えました。以前と何ら変わることなく、再起動することもなく、これからも同じアプローチを営々と繰り返そうとしている被爆地・広島。「ゆるやかな死」なる文言が、ふと脳裏を過りました。

 

私は拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』で、広島の戦後は「断絶」と「停滞」の連続であった、と記しました。今は、明らかに「停滞」が此の地を覆っています。しかしながら、このぼんやりとした静寂はやがて、おもむろに薄皮を破り、取り返しのつかない「断絶」へとひた走ることとなります。それを、広島の人々は誰ひとりとして、気づいてはいない。

 

広島の”現代”は、1945年8月6日を起点に始まっています。数万人もの人々が、瞬時にして命を奪われた、殺戮された”あの日”から、時は”凍結”されているかのように見えます。そして、原爆症による「ありふれた死」を間近に見詰めながら、76年もの歳月が過ぎ去りました。広島平和記念資料館の「地球平和監視時計」が日々、「広島への原爆投下からの日数」を刻んでいるようにこの街は、常に”後ろ向き”であることを余儀なくされて来た。そうすることが、あたかも原爆死没者に対する唯一の供養であるかのように。

これまで私たちは、「被爆」と共に歩んで来ました。それは何も、被爆者たちの個人史だけではありません。1949年8月6日に公布・施行された広島の”憲法”たる『広島平和記念都市建設法』を始めとして、「国際平和文化都市」といったモットー、同市を代表するマツダや広島東洋カープの発展もまた、”あの日”からの復興が原動力となって来ました。

 

しかしながら広島は今、戦後最大のターニング・ポイントを迎えつつあります。広島市在住の被爆者(被爆者健康手帳所持者)は42,191名。内、1号被爆者は25,323名で、平均年齢は83.5歳となっています(本年3月末現在 広島市調べ)。身心共に健康な方に限れば、平均年齢は85歳を優に超えていることでしょう。いつの間にか、「被爆者なき時代」が、ほんのすぐそこにまで迫って来ています。それは何も、被爆者たちの生涯だけには留まりません。あの日の惨禍を目にし、耳にし、触れた彼らと歩調を合わせて来た広島の”現代”が、終わりを告げようとしているのです。

 

私は、被爆80年がひとつの転換期となり、決定的な「断絶」が急速に広まり、定着して行くものと踏んでいます。それは最早、誰にも止めることは出来ません。”あの日の記憶”、被爆体験は確実に、そして淡々と過去の不幸な出来事として歴史の1ページに記され、やがて忘却の彼方へと押しやられて行くことでしょう。と同時に広島は、三四半世紀余りの”戦後”を良きにつけ悪しきにつけ支え続けて来たアイデンティティを喪失することとなります。私たちが、のっぺりとした日常に安住する中で、人知れず広島の「ゆるやかな死」は始まっています。