20211203-1.jpg
 

 

   一昨晩は、知己の落語家 柳家さん生師匠の独演会にお邪魔しました。演目は『笑の大学』。あの三谷幸喜さん原作の戯曲の落語版です。この作品、舞台(1996年〜)や映画(2004年)でご存じの方も多いかと思いますが、落語についてはさん生師匠だけが演じることを許された演目です。と云うのも、日本大学藝術学部に通っていた師匠の友人であり落研のメンバーでもあった故・伊藤俊人さんが、親友の三谷さんが旗揚げした東京サンシャインボーイズの役者さんであったことから、縁が結ばれたと云います。

   私も敬愛するロマンティック・コメディの巨匠ビリー・ワイルダー監督を師と仰ぐ三谷さんが紡いだこの作品はまさに、おもしろうてやがて悲しき芝居哉。あまりの完成度の高さに映画化を手掛けた星譲監督も当初は辞退を申し出たほどでしたが、さん生師匠は鬼気迫る演技で見事なまでに演じ切り、プロの話芸の凄みをまざまざと見せつけて下さいました。面白かったでは済まされない、まさに感動の高座でした。

 

   作品のテーマは、平ったく云ってしまえば「戦時中における表現の自由」となります。しかしながらエンターテイメントの何たるかを知る三谷さんが、そこここでくだを巻いている”運動家”が連呼するような定型化されたストーリーを踏襲はずもありません。

当時、検閲を担当していたのは内務省 (警保局検閲課・情報局第4部第1課兼務)でしたが、警視庁興行課検閲係の向坂睦男が、劇団『笑の大学』の座付作家である椿一との度重なる面談を経て次第に、台本の執筆に関与して行く(この椿一のモデルは、エノケン劇団の座付作家 菊谷栄と云われています)。云ってみれば、言論統制の最前線に立つ官憲と自由主義者であるところの脚本家が、知らず知らずのうちに”共同正犯”に関与する様を面白おかしく描いています。時代といかに対峙するか。さん生師匠が演じた両者のやり取りは、作家である私にとっても他人事とは思えません。ついつい手に汗握り、師匠の術中にまんまと嵌まってしまいました。

 

時は昭和15年、こうした”共犯関係”など絵空事に過ぎないと思われる方もいらっしゃるでしょう。しかしながら実際のところ検閲官は、一般庶民よりも遙かに芸術に対して造詣の深い大卒のエリートたちばかりでした。例えば、川端康成の『雪国』が舞台化された際 (主演 花柳章太郎)、若い将校が酔って軍歌を高歌放吟しながら行進するといった場面が問題視されました。演出家の阿木翁助氏が「出陣をひかえて士気高揚しているところだから、観客はむしろ好感をもってみるのではないでしょうか」と主張したところ、年若い検閲官はたちどころに賛同。しかしながら上席の「千賀氏はガンとしてダメ」だと言い張り、ふたりは阿木氏の前で「はげしい口論」を始めたと云います (「検閲の人たち」阿木翁助 著『悲劇喜劇』1972年8月号)。

このように、軍部に睨まれていた作家たちの作品を守ろうと尽力した検閲官も少なからず居たことは確かです。尤も、選民意識が高かった彼らは、喜劇を始めとする大衆娯楽など”低俗”な芝居には厳しく対処したとも云われています。

 

「死んでいいのは、お肉のためだけだ!」。これは、この作品を象徴する名ゼリフです。庶民にとっては「お国」よりも「お肉」の方がよほど大事。腹が減っては戦ができぬ、ならぬ、笑いがなければ戦もできかねる。大体においてお上が七面倒くさいことを云い始めれば世の中、おかしな方向へ行くものです。猥雑、お下劣、俗悪の何が悪い。さん生師匠の光り輝くおつむを愛でながら、この「お国」の行く末に想いを馳せる笑いに満ちた夜でありました。さるまた失敬っ!