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私の父親の世代、いわゆる旧制高等学校に通っていた学生たちにとっては、岩波新書を何冊読破するかが、教養を推し量るひとつの目安となっていました。当時は、新書と謂えば岩波書店一択。様々な分野の大家が著した国内外の古典的名著がひしめき合っていました。私も角川新書から拙著を上梓させて頂きましたが、かつての新書は、現代のようなムック本に近い”旬の事象”の解説書、または入門書といった書籍ジャンルではなく、書き手であれば誰もが憧れる孤高の存在でした。

父への対抗心からか、私も中学・高校時代には岩波を始めとする新書を片っ端から読み漁りました。自然科学から文学、思想、工学、哲学に至るまで。率直に云って”質”より”量”。まさに濫読です。しかしながら、何の脈絡のない膨大な知識の受容・蓄積が後年、大いに役立ちました。

 

濫読とは、詰まるところリベラル・アーツと云って良いでしょう。感受性豊かな思春期に、未だ真っ白なキャンバスを様々な分野の一般教養で彩る。こうした”知の洗礼”を受けたか否かで、その後の人生は変わって来ます。

社会人になれば大半の方々は仕事や家事に追われ、読書に費やす時間は激減してしまいます。実用書やビジネス本、啓発書くらいしか手にしなくなる。やがて50歳を迎える頃合いには、老眼を患うなど身体的理由も相まって、本を読むのが億劫にもなる。限られた時間を読書に充てるとなれば、それぞれの興味や嗜好、信条と異なる書物はまったく読まなくなります。

 

リベラル・アーツの素養があれば、様々な意見や考えがあることを潜在的に理解し、バランスの取れた判断力を持てるようになります。また、偏向した思想や情報を嗅ぎ分ける感性も養われます。いわゆる知的リテラシー (Intellectual Literacy) の修得です。一方、濫読経験がない、つまりは本を読むコツをマスターしていない人間は、歳を重ねるに従い自らの小さな器にしか適合しない情報や知識しか受け入れられない”体質”になってしまいます。

なぜか? 面倒くさいからです。いい歳をして自分とはまったく異なる思想、信条を持つ著者の作品など読みたくもない、真っ向から議論する気力も最早ない。万が一にも啓発され、自己否定のきっかけにでもなったらそれこそ大事です。

 

1843年 (天保14年) に市長の個人図書館として建てられたドイツ連邦共和国ミュンヘンのJuristische Bibliothek (法学図書館)。

 

濫読は、10代か20代にしか出来ません。読書には、体力が要ります。時間的、精神的余裕がなければ相反する論旨を理解し、熟考し、批判精神を養い、自らの考えを構築するだけの包容力を育てることは難しい。

高齢になって俄然、読書に没頭する方もいらっしゃいますが哀しい哉、率直に云って一般教養を身に付けるには手遅れです。若き日に知的リテラシーを身に付けていなかった方に限って、いわゆるフィルター・バブル (Filter Bubble) の罠に嵌まり易い。耳目に入る極端な思想や偏向したネット情報を大半の人々が信じていると思い込み、持論 (とは云え、借り物ですが) を舌鋒鋭く説くようになりますが、なかなか周囲の理解は得られず孤立してしまう。

それもそのはずで、幸か不幸かこの世の中、バカばかりではありません。学者などよりも遙かに教養があり、英知に富んだ市井の人々は山ほどいらっしゃいます。大衆迎合主義が幅を聞かせるネットには、そういった方々は一切姿を見せませんが、書籍を著していると時折、真のインテリゲンチア (Intelligentzia) と遭遇する幸甚に恵まれます。リベラル・アーツの素養がなければ、こうした”本物”を見分けることも容易ではない。濫読は一見、無駄なように見えて、実のところ氾濫する情報の”雑味”を取り除く最良の方法とも云えるでしょう。

 

そもそも、これまで何百億人もの人々が積み上げて来た知の世界は残酷なまでに深淵であり、一生かかっても、その鳥羽口にしか立てません。リベラル・アーツとは、ある意味において、若き日に己の無知を自覚し、絶望から身を守るための処世術でもあります。

「人の世に楽しみ多し然れ共 酒なしにして何の楽しみ」と喝破したのは歌人 若山牧水ですが、「人の世に楽しみ多し然れ共 書なしにして何の楽しみ」とも言い換えられます。教養とは、かくも得難く、尊いものなのです。