広島は、西日本有数の保守王国です。県外者にとっては、「広島」と聞けば「原爆」といったイメージが未だ根強いことから「革新勢力が幅を利かせている」と思われ勝ちですが然に非ず。先の第49回 衆議院議員選挙では県内7選挙区のうち6つで自由民主党と公明党が議席を獲得。広島市議会においても、定員54名のうち保守系に属さない議員は僅か12名に過ぎません。
そうした保守系議員の方々と話してみると屡々、口を突いて出るのが平和・反核運動に対するアレルギー反応です。「1950年代から綿々と連なる”運動”のお陰で、広島市の健全な経済発展が阻害されて来た」というわけです。「好い加減、”負の遺産”とは訣別すべき」。広島市に暗い影を落とす根源的な「断絶」がここにあります。
仰る意味はわからないでもありません。しかしながら、如何せん歴史に対する理解と思慮が足りない。この連載でも繰り返し綴って来たように、好むと好まざるとに関わらず広島市は、「被爆」と共に”戦後”を歩んで来た。その過程で、奇跡の復興を成し遂げ、経済成長も達成したわけです。「広島」の戦後史と「被爆」とは表裏一体の関係にあり、これまでも、そしてこれからも決して逃れることは出来ません。
くどいようですが広島市に、「平和」といった”看板”以外で国内外に向けてアピール出来る、東京、大阪、京都と互角以上に戦えるだけのキャラクターはありますか? こう云っては何ですが、取り立てて突出したコンテンツがあるわけではありません。いかに広島市が『広島平和記念都市建設法』で掲げた「平和都市」といったオリジナリティ豊かなアイデンティティと折り合いをつけ現代、そして未来へと繋がる道筋をつけられるか。これしか生き残る術はありません。
他方、革新系はどうかと云えば、率直に云ってすでに死に体です。最大の問題点は、とうの昔にカタカナ表記の「ヒロシマ」は経年劣化を来たし、形骸化しているにも関わらず、それを知ってか知らずか (おそらくまだ気づいていらっしゃらないのでしょう) 未だに半世紀前の平和運動を教条的かつ排他的に繰り返している。革新勢力そのものが保守化の一途を辿っていると云っても過言ではありません。それゆえに、市外からの新規流入者や若者世代の賛同を得ることが出来ず、孤立を深めるばかり。「今の若いもんは…」と咎め立てたところで、人心を動かすことは出来ません。ここにもまた、「断絶」が顔を覗かせています。
一方は、過去を切り捨てることに躍起となり、他方は執拗なまでに過去に固執する。「誰も、前を向こうとしていない」というのが、アウトサイダーとしてこの街を見詰めて来た私の偽らざる印象です。広島の方々は、ある時期を境に、一種の思考停止状態に陥っているかのようにも見えます。それが「停滞」、すなわちステイタス・クォー (Status Quo) です。思想信条を問わず、どなたも過去に囚われ、新たな発想を編み出そうとしない。「ピンチ」を「ピンチ」として淡々と受け入れる、または「ピンチ」を生んだ ”体制” を糾弾することに明け暮れ、「ピンチ」を「チャンス」と捉え、行動に移す気概が感じられない。
此の地には、「平和」という ”広島ならではの優れたコンテンツ” があるにも関わらず、誰も一歩前に踏み出さない。危機感の欠如。こうした茫洋たる不安感を抱いたまま、「被爆者なき時代」を迎えればどうなるか。寄って立つ「被爆体験」が喪失すれば、この街の戦後を支えて来たアイデンティティもまた静かに消え去るのみです。
この連載では敢えて、誰も口にせず、況してや書こうともしない「広島」を、数回に分けて記しています。それが、曲がりなりにも一ジャーナリストとして広島と契りを結び、今は亡き方々も含む被爆者の想いを伺った私の、責務であると考えるからです。不快に思われる方、批判的な考えをお持ちの方も多々いらっしゃるでしょう。承知の上です。読み流して頂いても構いません。しかしながら10年後、いや5年後には必ずや広島の皆さんも「なるほど。こういうことだったのか」と、気づかれるはずです。私たちを、叱ってくれるひとはもういない。但し、その頃にはすでに、手の施しようはなくなっている、とだけ付け加えておきます。