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千葉県・市川市内のタイ料理店でスラチャス師と会食(2008年)。彼の姿を見つけると、タイ人のみならず多くの東南アジア人たちが駆け寄り、跪き、手を合わせて行きました。

 

   ミャンマー全土で今日も繰り広げられている自由と民主主義を求めるデモンストレーション。文字通り何万、いや何10万人もの老若男女が集い、整然と歩を進める光景を見ていて私は、ふとマハトマ・ガンジーが率いた”塩の行進”を思い出しました。1930年3月12日、インド北西部のグジャラート州ダンディ海岸を目指したこの”受身の抵抗”は、英国からの独立運動を押し進める契機となっただけではなく、その後の非暴力主義の原点ともなりました。

 

   ヤンゴンで、マンダレーで、全国各地の村々で、列に加わる人々を見ていて気づくのは、誰ひとりとして鉄パイプや火炎瓶など”武器”と成り得る物を携帯していないことです。ヘルメットも被らず、サンダル履きで行進する市民も目立ちます。若者たちも、ドラム缶を切り抜いた鉄板にペンキで「POLICE」ではなく「PEOPLE」と書かれた手製の”楯”を手に、あくまでも非暴力を貫いています。

それだけではありません。公務員を含む多数の市民が仕事をボイコットする「市民的不服従運動」(CDM: Civil Disobedience Movement) を展開しているため同国では、工場の操業停止はもちろんのこと、銀行を始めとする金融機関や公共サービスも麻痺状態に陥っています。こうした大規模な職場放棄は、云うまでもなく彼らの社会生活をも脅かしています。

多発する死傷者や逮捕者に関する情報は、クチコミで広く伝わっているはずです。怖いでしょう。苦しいでしょう。それでも彼らは敢然と起ち上がった。私は、同国民特有の穏やかな表情の下に隠された断固たる決意と、人としての尊厳を感じ取り、感動を押さえることが出来ません。

 

   ミャンマーのデモ行進の先頭には、必ずと云って良いほど仏僧が立っています。全人口の約70%を占めるビルマ族を中心に国民の約80%が上座部仏教徒であるため、僧侶は尊敬の対象であり、人々の精神的リーダーとしての役割も担っています(そのため、ベンガル人ムスリム教徒であるロヒンギャ族に対する迫害も引き起こされたわけですが)。

 

   私の親しい友人にミャンマーの僧侶がいます。私が彼と初めて出会ったのは、タイ王国の首都バンコクにある王宮寺院ワット・ポー(Wat Pho)の境内でした。当時、鎖国状態にあったベトナム社会主義共和国に入国すべく同地でビザの発給を待っていた私が、ひとつぐらいは観光名所を訪れておこうと思い、立ち寄った折でした。

   用を足したいと、掃き掃除をしていた若き仏僧スラチャイに声を掛けたところ、幸い英語が達者で、同年代ということもあり話が弾み、「明日、私の故郷であるビルマ(当時の国名は、ビルマ連邦社会主義共和国) の山村に帰るので、一緒に来ないか」と誘われました。

   ビザの発給には、少なくとも1週間はかかった時代です。無鉄砲な私は一も二もなく同意し、彼と共に半日かけてタイ西部のスリー・バコダ・パスから国境を越えてカレン州パヤトンズーに入り、さらに一日かけて熱帯雨林が生い茂る山間部の道なき道を進みました。少数民族であるモン族の反政府ゲリラに取材出来たのは、云うまでもなくモン族出身の彼のお陰でした。

 

信仰心の篤いタイ人宅(千葉県・市川市)に起居していた当時のスラチャイ師。

 

   その後、スラチャイ師は数度にわたり来日し、親交を深める機会を得ました。日本を訪れる度に彼は、半年ほど東京や長野県のタイ人宅に起居していましたが、訪ねてみると幾人ものタイ人やミャンマー人、ラオス人らが次から次へと寄進にやって来ました。故郷を離れ、檀那寺に参拝出来ない彼らにとってスラチャイ師の存在は願ってもない喜悦だったわけです。

 

   そんな彼とは今、連絡が取れずにいます(海外とのコンタクトは、彼の身に危険を及ぼす可能性があるため、敢えて連絡は控えています)。第二の都市マンダレー近郊に寺を開いたという彼は、おそらく他の僧らと同じく胸を張り、グッと前を見据えてデモの先頭に立っていることでしょう。一日も早く事態が終結し、ミャンマーが自由と民主主義を取り戻すことを願わずにはいられません。

私たちと同じ、どこにでもいる市民が丸腰で、命を賭して闘っています。ミャンマーの市民が、観念論ではない「正義」と「愛国心」の真の意味を私たちに教えてくれています。日本からもサポートの意思を伝えましょう。God bless Myanmar!

 

インドのオンライン・ニュース・メディアCCNのChcha Varteディレクターがまとめた過去1ヶ月間にわたるミャンマー情勢。数々の貴重な写真が紹介されています。