武装した治安部隊と対峙する抗議デモに赴く青年と見送る少女。「おにいちゃん、早く帰って来てね」とでも云っているのでしょうか。私にとってこの写真は、ミャンマーの現状を捉えたベスト・ショットのひとつとして挙げられます (Photo by CJ)。
長く、そして短い人生の中で悔やまれることは幾つもあります。私は1988年初頭にタイ国境を越え、ビルマ連邦(現・ミャンマー連邦共和国) 東部の密林地帯に潜入し、反政府ゲリラのモン国民解放軍(NMSP)を取材しました(ちょうど今、国軍が空爆を繰り広げている地域です)。それから約半年後の 8月8日。全ビルマ学生連盟は、ネ・ウィン将軍率いるビルマ社会主義計画党による軍事独裁政権を打倒すべく全国規模の抗議デモを呼びかけました。
すでに戒厳令下にあり外国人の入国が禁じられていたとは云え、なぜあの時、私はビルマに寄り添わなかったのか…。未だ駆け出しであった私の力など、芥子粒にも満たなかったでしょう。それでも、今に繋がる国軍の狂気をほんの少しでも、押し留める一助となれたかも知れない…。私が、現在のミャンマー情勢に酷くこだわる理由のひとつが、こうした悔恨の念にあります。
私たち日本人には、ややもすればアジアの人々を蔑む傾向があります。「民度が低い」、「経済力に乏しい」等々。しかしながらほんの1世紀半ほど前まで、富国強兵を掲げ殖産興業政策に舵を切るまでの私たちも、彼らと同じ貧しいアジアの1国に過ぎませんでした。
そんな私たち日本人にもかつて、崇高な理想を抱いていた時代がありました。1919年2月、第一次世界大戦後の国際秩序と体制を定めるパリ講和会議(ヴェルサイユ会議) に我が国は、全権首席大使として西園寺公望を任命し、全権次席に牧野伸顕、全権には”霞ヶ関で一番の切れ者”と云われた珍田捨巳と松井慶四郎、伊集院彦吉を揃え、万全の態勢で臨みました。国際連盟規約起草のための専門機関である国際連盟委員会の会議に先立ち伸顕は同月13日、
「余のここに提議せんとする附属条項は、正に第二一条の規定中に包含せらるるべきものと認む。従来、人種上並びに宗教上の怨恨がしばしば各国民間の紛糾並びに戦争原因となり、往々痛嘆すべき極端なる結果をもたらしたること史上その例乏しからざることは、敢えてここに多言を要せず。本条項は本案文の示す通り、国際関係より宗教的争闘の原因を除去せんことを期するものなるが、人種問題も将来何時緊急かつ危険の問題となるやも計り難き常時の難問なるにつき、本規約中に本件処理に関する条項を設けられんことを希望す」と、並み居る欧米列強を前に、辯舌を振るいました。即ち、
「各国民均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り、締結国は主義としてなるべく速やかに連盟員たる国家に於ける一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え、人種あるいは国籍如何に依り法律上あるいは事実上なんら差別を設けざることを約す」といった一文を国際連盟規約に加えるべきだと力説したのです。この動議は、米英ら大国によって事も無げに却下されてしまいましたが、国際会議の席上で初めて「人種差別撤廃」を提起したのは他の誰でもない、私たち日本人でした。
伸顕が主張したこの人種差別撤廃なる考えは、後に大東亜共栄圏と名を変え、質的変化を経て、日中戦争から太平洋戦争の終結に至るまで大日本帝国の国策として掲げられます。欧米に対するコンプレックスの矛先が、アジアの抑圧へと向かった瞬間でした。やがて日本が掲げた「平等」の思想は、それが真の理想主義に立脚していなかったがために、歪な変容を遂げ覇権主義へと繋がって行きます。しかしながら、日本の”大義”は潰え去ったとは云え、国際連盟委員会の議事録の末尾に、辛うじて記されたその残滓を、多くのアジアの人々は今も記憶しています。
そして今、ミャンマー情勢を報じる日本のマスメディアや人権擁護派を自認する人々の言動からも、「(我々先進国とは異なる)未開の地で起こっている野蛮な争い」といったニュアンスを微かに感じ取ることが出来ます。私たち日本人は、いつからこんなにも傲慢になってしまったのでしょう。
ミャンマー市民の闘いを単なる地域紛争として捉えれば本質を見失います。これは、非暴力主義を貫く民衆が市民的不服従運動(CDM)を通して「民主主義」を獲得しようとするまさに歴史的挑戦に他なりません。私たちが明治維新以降、1世紀半を費やしても遂に自らの手では勝ち得ることが出来なかった「民主主義」を、ミャンマーの人々は今、命を懸けて創り出そうとしています。尊敬こそすれ、見下す理由など、どこにもありません。ミャンマー問題とどう向き合うかが、私たちの「アジア観」のみならず、「民主主義」に対する認識、そして意識レベルを推し量る試金石ともなっています。あなたの”正義”の在処はどこですか?