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2週間前に広島市内でお目にかかった際のツーショット。初めてお会いしたのは2年前のことでした。

 

一昨日は「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんの同級生であった川野登美子さん、そして昨日は、広島大学医学部・広仁会館で催された がん啓発のチャリティーイベント『リレー・フォー・ライフ・ジャパン2021広島』において講演された早志百合子さんのお話を YouTubeを通じてオンタイムで拝聴させて頂きました。

 

段原国民学校(現・広島市立段原小学校) 3年生、9歳の時に爆心地から1.6キロ離れた土手町(現・比治山町) の自宅で被爆された早志さんは、原爆症によって寝たきりとなり、毛が抜け、嘔吐を繰り返し、とても生き延びることは難しいと周囲に思われていたと云います。ご本人も塞ぎ勝ちで、原爆傷害調査委員会(ABCC)による非人道的な扱いと相まって、恐怖心と屈辱感に苛まれる日々を送っておられました。

転機となったのは、広島市立幟町中学校に入り、2年生の時に課題として書いた手記が、今でも世界中の人々に読み継がれている『原爆の子 ―広島の少年少女のうったえー』(編 長田新)に収録されことでした(1951年)。また、岡田英次と月丘夢路が主演した映画『ひろしま』(監督 関川秀雄)では「原爆の子 友の会」の一員として製作に協力し、エキストラとしても出演したことから(1953年)、次第に生きる気力が湧いて来たと仰います。

 

私の蔵書は1981年に刊行された15刷。早志さんがお持ちの初版本には、長田新 広島大学名誉教授の「幼き神の子の声を聞け」といったサインが書かれています。

 

やがて結婚し、妊娠すると、信じられないことに産婦人科医から堕胎を薦められたと云います。それでも早志さんは、多くの尊いいのちが原爆によって失われたにもかかわらず生き延びた自分には、「いのちをつなぐ」責任がある、といった強い意志を貫き、元気なお子さんを授かりました。その後、乳がん、膀胱がんを患いながらも早志さんは、後ろを振り返ることなく、2002年には健康体操の創作・普及を目的としたNPO法人『ステップ21』を設立し、現在も約4,000人の会員を指導されています。

 

私はこれまで広島で、数多くの外国人の方々にお会いしましたが皆、一様に近代都市として復興した広島の姿に感嘆の声を挙げます。それだけではありません。あれだけの惨禍に見舞われながらも「赦すこころ」を宿した広島の人々の、崇高な精神に感動を覚えたと口を揃えます。

悪魔の兵器 原爆を投下した米国人のみならず、核兵器を製造・保持し続ける世界中の人々に私は、是非とも早志さんの生き様を知って頂きたい。早志さんの笑顔に触れて頂きたい。武力によって、核兵器によって、決して人間を屈服させることは出来ません。

 

確かに広島は、原爆によって焦土と化しました。たくさんのいのちが奪われました。それでも、広島もんは負けんかった。被爆から76年、枯れるまで涙を流し、歯を食いしばり、血が出るほど唇を噛みながらも前を向き、凛として生きて来られた早志さんがその証です。様々な想いを呑み込みながらも「憎しみから平和は生まれない」と穏やかに語るこのひとを見よ。「生きる」ことを諦めなかった被爆者の存在に勝る「平和」のメッセージなど、どこにもありません。

 

昨日開催された『リレー・フォー・ライフ・ジャパン2021広島』の映像。早志さんのお話は、2:11:10辺りから始まります。