原爆投下の2年後に原爆ドーム前に建てられた平和記念塔。左側には、被爆前の広島県産業奨励館と”BEFORE COLLAPSE”の文字。右には被爆後の同館(原爆ドーム)と”AFTER COLLAPSE”の説明書きがあり、中央にはきのこ雲の前に鳩が飛んでいる絵柄が彫られていました(1951年に撤去)。
「広島」をテーマに据えた私のふたつの著作ですが、いずれの題名にも「平和」の二文字を用いています。まずは『平和の栖〜広島から続く道の先に』(集英社クリエイティブ)。今回、初めて明かしますが実は7年前、取材に着手した当初、私は『彼岸より』といった題名を想定していました。原爆によって尊い命を奪われた方々の声なき声を掬い取る、といった意味合いです。しかしながら、取材を進めて行く過程で”平和の栖”といったフレーズが脳裏を過りました。「平和」を育む鳥 (鳩) の「巣」 (Bird’s Nest)。より肯定的に広島の (そして我が国の) 戦後復興を捉えた結果だったとも云えるでしょう。
続いて『平和のバトン〜広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶』(くもん出版)を著しました。こちらは、原爆によって焦土と化した広島の経験を如何に次世代へ伝えるか。こちらも「8月6日以降」に焦点を当てた未来志向の作品です。その意味では両作品ともに、これまでの”広島本”とは一線を画す内容になったと自負しています。
ただ、「平和」の二文字を題名として用いるにあたり、かなりの覚悟を要しました。と云うのも、悲しいかなこの国において、「平和」という文言には一定のカラー、思想的ニュアンスが染み付いてしまっているからに他なりません。ニュートラルを本分とする私にとって、これは葛藤の種となりました。どちらの作品も一般書籍として、全国の”マス・マーケット”に向けて発信する作品であるだけに、偏ったイメージで捉えられることは本意ではありませんでした。そのため、担当編集者と幾度も議論を重ねましたが、「内容から云って本作は『平和の栖』以外には考えられない」との結論に至り、この題名に収まりました。『平和のバトン』も然り。これに勝る案はなく、満場一致でこの題名が採用されました。
拙著においても、「平和」といった文言の成り立ちから近代における変遷をつぶさに綴っていますが、この我々人類にとって最も崇高な”有り様”は、時代によって解釈が大きく変わります。例えば、戦争体験者が「平和」の真の意味を知っていたかどうか、実のところは疑わしい。しかしながら、少なくとも戦地において身を以て体験した残酷極まりない「戦争」の反語としての「平和」は理解していたに違いありません。
ノーベル文学賞作家 大江健三郎は、1965年に朝日新聞社から刊行された『原爆体験記』(広島市原爆体験記刊行会 編)に寄せたあとがき「なにを記憶し、記憶しつづけるべきか?」の中で、
「じつはぼく自身もまた、平和という言葉にうんざりしている人間であるといわざるをえません。戦後二十年、平和という言葉は、たびたび汚水をくぐってきました。様ざまな意味づけがおこなわれ、我田引水の好餌となり、嘲弄され、そして、その実体は、真の意味は、うやむやのうちに、この現実世界から葬りさられようとしているようでもあります。現在、いかなる文章において使用される平和という言葉が、もっとも信頼すべきこの言葉本来の重さと美しさをそなえているか?こうした疑問はおそらく、決して特殊な少数者のものではないはずです。平和について考えてみることのある人なら、誰もが一度は、この疑問にとりつかれたちがいありません」と、「平和」という言葉の用法、むしろ作法について警鐘を鳴らしています。
私にとって、これら著作の主題のひとつが、「平和」という文言の再定義でした。そもそも「平和」、英語の ”Peace” という言葉はラテン語の ”Pax” にまで起源を遡ることが出来ます。これはローマ神話に登場する平和と秩序を司る女神の名称ですが、西洋文明における「平和」には、ローマ帝国のような強大な軍事力を擁する超大国によって平定、維持された政治的、社会的平衡状態といった意味合いがあります。元来、”Peace” にはその前提条件として、侵略を伴う武力紛争があり、これを解決した後に訪れる不戦状態といったニュアンスが強かったと云えるでしょう。
ところが日本国憲法では、「恒久平和」を「崇高な理想」と位置付け、その「平和」とは、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」した極めて広範かつ抽象的な有様であり、必ずしも戦争だけを念頭に置いたものではありません。平たく言えば、社会格差や貧困、飢餓、環境問題や性差別、家庭内不和でさえ、「幸福な市民生活の基本であるところの平和を妨げる要因」として内包することが出来ます。今で云うところのSDGs (持続可能な開発目標) の先取りです。
ノルウェーの社会学者であり平和研究の第一人者として知られるヨハン・ガルトゥングは、これら戦争の不在によってもたらされる状態を”消極的平和”。戦争や紛争がなくとも生じる直接的暴力や構造的暴力、文化的暴力から直接的平和、構造的平和、文化的平和の状態へ社会が全体として転化してゆくことを”積極的平和”と定義づけています。
翻って現在の広島市はどうか? 広島市ほど、「平和」という文言が公文書に登場する自治体はありません。しかしながらその意味合いは半世紀以上、何ら変わることなく、経年劣化し、形骸化し、云ってみれば”凍結保存状態”となっています。私は、被爆地・広島こそが今、改めて「平和」という文言の再定義を行い、新たなメッセージを世界に向けて発信すべき、と考えます。
それが”国際平和文化都市”広島市の責務であるとともにこの街が今後、激化の一途を辿る地方都市間のサバイバル競争において、埋没することなく生き残るための、唯一の手立てとなるはずです。広島市は、まずは「平和」に対する”思考停止状態”から、脱却しなければならない。過去に固執するのではなく、50年後、100年後といった未来を築くために。