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昨日まで東京・六本木の森美術館で開催されていた『Chim↑Pom 展: ハッピースプリング』、アーティスト・コレクティブ Chim↑Pom from Smappa!Group (以下、Chim↑Pom) の回顧展を鑑賞して来ました。今、日本で最もラディカルで”好戦的”と云われる彼らの作品を、トータルに”体験”出来る絶好の機会。Chim↑Pomの”暴挙”を知らずしてこの国の現代アートは語れません。

 

「汚物」。Chim↑Pomが執拗に追い続け、作品の軸に据えているのが「汚物」です。現代社会が何食わぬ顔で”ゲロ”し続ける吐瀉物、奇妙にねじ曲がり「負」のオーラに満ち満ちた有形無形の「汚物」の数々。それらは都市から排出される粗大ゴミから、原爆や原発から放出された放射性物質、パンデミック、棄民、そして罵詈雑言に至るまで多岐に渡っています。

「乱射」といった言葉が、脳裏を過りました。それは、我々が見て見ぬ振りをして来た醜悪な「汚物」を冷徹に射貫く”狙撃兵”の仕業ではなく、周囲への乱反射をも辞さないショットガンによる”総花攻撃”です。

 

広島の皆さんには、彼らが2008年10月21日、原爆ドームの上空に「ピカッ」の文字を飛行機雲で描いた《広島の空をピカッとさせる》が印象に残っているはずです。この作品には、被爆者や市民から「不快」の声が上がり、広島県原爆被害者団体協議会の故・坪井直理事長(当時)も「独り善がりのパフォーマンス。平和の訴えにはつながらない」と、翌日付の『中國新聞』紙上で厳しく非難されました (Chim↑Pom同24日に謝罪し、被団協とは後に和解)。ある意味、数10年もの歳月をかけて少しづつ重荷を下ろしていた被爆者と、重荷を少しづつ担ぎ始めたChim↑Pomとの”交差点”がこの作品だったとも云えるでしょう。

 

 《広島の空をピカッとさせる》の映像。

 

Chim↑Pomは、この作品の意図を「『平和』という現代日本社会の基盤に対して無関心が蔓延していることを漫画的に可視化する、というもの」だったと説明していますが(つまりは「無関心」という名の「汚物」)、個人的にはやはり被爆者に対する配慮が欠けたインスタレーションだったように思います。

私を含む「平和しか知らない世代」は、想像力を人一倍逞しくし、「平和」の意義と意味を真摯に探らなければなりません。”運動家”であれば、お約束の不毛な内ゲバを延々と繰り返していれば事足りますが、時代を撃つアーティストともなればそうは行きません。芸術というものは、表層をなぞるだけでは済まされない。独自の手法、切り口で究極の「愛」をいかに表現するか、創造出来るかがすべて。被爆者を叱責したり、悲しませるなど以ての外です。その意味において、創作を糧とする私にとっても本展は、大変示唆に富んだものとなりました。

 

広島市に届けられた大量の千羽鶴を使った《パビリオン》と、実物大の鶴を模した《リアル千羽鶴》。個人や団体からの発注で制作されるこの鶴は現在8羽。最終的には1,000羽を作るといった目標自体をコンセプトとする作品。

 

また、今回の回顧展はChim↑Pomの強さと弱さが渾然一体となった非常に興味深い、人間味溢れる展示となっていたように思います。まずは疾走。四方八方に矢を射る無鉄砲さがChim↑Pomの最大の魅力であり持ち味です。タブーと真正面から向き合い、異臭や毒素を撒き散らしながら前進するそのパワーには圧倒されるのみならず、他の現代アーティストからは決して得られないバイブを感じることが出来ました。

 

《ノン・バーナブル》 広島市に世界各国から届いた折り鶴に書かれたメッセージを、Chim↑Pomのメンバーであるエリイが読み上げつつ、それらを淡々と四角い折り紙へと折り戻す作業を繰り返し、鑑賞者はこれらの折り紙で再び折り鶴を折るといったインスタレーション(折り直された折り鶴は再び広島市へ返却)。

 

  しかしながら一方では、東京人ならではの脆弱さ、良く云えば生真面目さが作品から見え隠れしていたようにも思います。上記の「謝罪」から”その後”の騒動に対する「再検証」。《広島の空をピカッとさせる》以来、広島と向き合い続けるその真摯な姿勢 (正のベクトル) には寧ろ、一抹の不安を覚えます。背負う。「汚物」ではなく「責務」を引き受けても尚、「乱射」を継続出来るのかどうか。アナキズムを真っ当出来るのかどうか。これからも、燦めくシューティング・スターの創作活動からは目が離せません。

 

エリイの結婚祝賀会を作品化した《ラブ・イズ・オーバー》では、夜通し乱痴気騒ぎを繰り返した後に、多くの警察官に見守られながら東京・新宿をデモ行進。

 

 鑑賞者も”作品”の一部に。