20220627-1.jpg
 

 

どうにも解せない。広島市は先月20日、ロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領とミハイル・ガルージン駐日大使へ、今年8月6日に開かれる平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)の招待状を出すことを見送ったと公表しました。また、長崎市の田上富久市長も同じく26日、8月9日の平和祈念式典(長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典)にロシア連邦の代表を招待しない意向を明らかにしました。

 

松井一実市長は同日の定例会見で、ロシア連邦の代表を招待することで「各国の代表者の方々が式典出欠の判断材料にするとなった時に式典どころではなくなるので、そういったことを避けようということ」と説明。田上富久市長も「長崎の被爆の実相に触れて欲しいという思いはもちろんあるが、厳粛に式典ということを考えた時に厳しい面が現実にあり、こういう対応をせざるを得ないのは非常に残念だ」と”弁明”しました。

 

確かに警備体制を厳重にせざるを得なくなるといった運営上の負担、重圧は察するに余りあります。しかしながら、そもそも「平和を祈念する式典」とは一体何なのでしょうか? 実際に軍事侵攻を行い、核兵器の使用も辞さないと威嚇している当事国のリーダーにこそ、これら戦時における被爆地を訪れて頂き、資料館に並べられた非戦闘員たる一般市民の遺品や被爆した品々をその目にしっかと焼き付け、無念の死を迎えざるを得なかった方々の慟哭に耳を傾けて頂き、絶対に、二度と核兵器を使用してはならない、と心に期して頂くためのものなのではないでしょうか?

例えロシア連邦が参列することで辞退する国が出ようとも、それは各国個別の判断であり、広島市、長崎市が気遣う必要などまったくないはずです。どのような状況におかれている国に対しても対等かつ平等に相対し、いかなる妨害活動があろうとも、参列者の身の安全は身を挺して守り切る、といった覚悟と矜持があってこその「平和の式典」であり、被爆者への慰霊となるのではないでしょうか? 

 

驚くことに松井一実市長は同日開かれた『平和宣言』について話し合う懇談会において、「ウクライナでの戦争が始まって、今まで申し上げて来た流れに逆行する事態が起きているので、もう一回踏み留まって良く考えて頂きたいと強く云いたい」と、語っています。それであれば尚更、プーチン大統領に広島へ来て頂くよう総力を挙げてアプローチし、面と向かって説得するのが筋というものでしょう。

広島市は、政府と協議する中で「招待することで日本の姿勢について誤解が生まれる」との結論に至ったと発表していますが、核保有国と非保有国との橋渡し役を果たす、と公言するのであれば、日本政府はこうした機会を積極的に活用し、独自の外交努力を展開すべきでしょう。また、広島市、長崎市も政府の”言いなり”になるであれば、地方公共団体の自主性はどこにあると云うのでしょうか?  ニュートラルなスタンスを失えば、式典そのものが形骸化し、単なるイベントへと堕落して行くこととなります。

 

「いや。式典はすでに名ばかりだから」と、冷ややかな声も聞こえて来ますが、それは違う。被爆地における「平和の式典」本来の崇高な意義を忘れたのは日本政府でしょうか? 地方公共団体だけでしょうか? そう云うのであれば、いつまでそのような無意味な式典を続けているのでしょうか? 中立の立場で恒久平和を願う”儀式”を有名無実化させないことこそが77年間にわたる両市民の渇望であり、責務、そして希望であったはずです。「ヒロシマ」、「ナガサキ」のこころは、一体どこへ行ってしまったのでしょうか?