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ベトナムと云えば、T君のことを懐かしく思い出します。1987年に初めて同国を訪れた際、ベトナム共産党青年団のサイゴン支部に立ち寄る機会がありました。そこで出会ったのがリーダー格だったT君でした。

 

英語が堪能で同い年であったことから意気投合し、彼とは街角に立つフォー( phở: 米粉で作られたベトナムの平打ち麺)の屋台や一杯飲み屋で親交を深めました。見るからに聡明なまなざしを湛えた彼は、私とは異なり軽口を叩くことは一切ありませんでした。ところが何度目かに、(冷蔵庫が未だ不足していたため)氷を浮かべた「333」(代表的なベトナム・ビール「バー・バー・バー」)を酌み交わしていた時、彼は突然、堰を切ったかのように生い立ちを語り始めました。

 

T君の父親は、ベトナム共和国軍(南ベトナム正規軍)の元・将校で、1975年4月30日のサイゴン陥落と同時に、臨時革命政府に捕らえられます。翌年7月にベトナム社会主義共和国が成立すると財産はすべて没収され、高校生だったT君も”再教育キャンプ”と呼ばれた再教育収容所へ送り込まれ、重労働を課せられました。

数年後、着の身着のままで漸くサイゴンへ戻って来たT君でしたが、”反革命分子”の烙印を押された彼に、職を与える人間などただのひとりも居ません。幼馴染みも同級生も、彼の姿を見ると軽蔑の一瞥しか与えることはありませんでした。父親の消息は杳として知れず、一家は離散。待っていたのはホームレス同然の極貧生活だったと云います。

ところが、ひとの人生は異なもの味なもの。捨てる神あれば拾う神あり。彼に目をかけてくれたのが、偶然出会った同地区の党幹部だったと彼は声を潜めて話してくれました。当初は誰もが嫌がる下働きを強いられていたT君でしたが、やがてメキメキと頭角を現し、まさにどん底から這い上がって行きます。彼の俊敏な判断力と執拗な用心深さは、こうした苛酷な半生によって培われたものだったのです。

 

 

2000年、約10年振りにサイゴンを訪れた私はT君との再会を果たします。『ホテル・マジェスティック』のロビーで待っていた私を、運転手付きのピカピカに磨き上げられたリムジンが出迎えてくれました。「すごいじゃないか、Tっ!」。グッと肩を抱き寄せた私に彼は一瞬、はにかんだ微笑みを見せましたが、そこにはあの当時、ふと垣間見せた憂いのある表情などどこにもない、自信に満ち溢れたひとりの男が立っていました。

 

ベトナムは1986年の第6回共産党大会において、俗にドイモイ政策 (Đi miと称される対外開放政策を打ち出し、社会主義市場経済へと大きく舵を切りました(本格的に改革がスタートしたのは1988年春のこと)。並外れた才覚に恵まれたT君は、ちょうど私と出会った数年後には自らベンチャー企業を起ち上げ、広告代理店業に進出。”サイゴンのD社”とまで云われるほどの快進撃を見せていました。

   帰国後、彼から「サイゴンの一等地に大型街頭ビジョンを設置したいのだけれど、日本のメーカーを紹介してくれないか」との連絡がありました。私はP社の知人を引き合わせましたが、同社は当時まだベトナムに現地法人がなかったため最新モデルのメンテナンスが出来ない、との理由から商談は成立しなかったようです。あれから彼と連絡は取っていませんが、持ち前の不屈の精神と先見の明で、いかなる苦境にぶち当たっていようが乗り越えているに違いありません。

 

   国民のあらゆる自由が悉く制限されていた1987年のベトナム。そしてその後、訪れたカンプチア人民共和国で目撃したカンプチア共産党(クメール・ルージュ)による自国民の大量虐殺の実態。こうした若き日に現場を歩いた経験が私の、声高に観念論を弄する輩に対する嫌悪感、右であるとか左といったイデオロギーを弄ぶ論客に対する不信感を育んだとも云えるでしょう。”事件”は会議室ではなく、常に、あなた方が安全地帯から傍観している”現場”で起きています。

 

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