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1945年7月23日、ドイツのポツダムで会談に臨む (左から) ウィンストン・チャーチル英首相、ハリー・トルーマン米大統領、ヨシフ・スターリン ソビエト連邦共産党中央委員会書記長。

 

1945年 (昭和20年) 7月26日に米国ならびに英国、中華民国 (現・中華人民共和国) によって発せられた『ポツダム宣言』を大日本帝国は同年8月15日、昭和天皇の『大東亜戦争終結二関スル詔書』 によって受諾。東京湾上に停泊した米アイオワ級戦艦『ミズーリ』 (USS Missouri, BB-63) の甲板上で9月2日、日本政府は降伏文書に調印し、夥しい数の犠牲者を出した戦争に終止符を打ちました。

 

『ポツダム宣言』の第7項には、「右ノ如キ新秩序カ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ 聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ 吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ」と記されています。つまり大日本帝国陸海軍の武装解除が完了するまでは連合国軍が日本を占領 (直接統治) するという意味です。

連合国軍は、天皇のご聖断があったとは云え、本土決戦の準備を粛々と進めていた大本営は元より、一億玉砕を唱える日本国民がおいそれと白旗を上げるとは夢にも思ってはいませんでした。寧ろ、沖縄戦で経験した熾烈なゲリラ戦に全国各地で遭遇し、双方に多大な死傷者を生むと想定していました。そのため、同年9月2日に調印された『降伏文書』においても「下名ハ茲ニ日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ 一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ 自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命ズ」と明記し、同日に連合国最高司令官総司令部によって発令された『一般命令第一号』でも、

「一 帝国大本営ハ茲ニ勅命ニ依リ且勅命ニ基ク一切ノ日本国軍隊ノ聯合国最高司令官ニ対スル降伏ノ結果トシテ 日本国内及国外ニ在ル一切ノ指揮官ニ対シ其ノ指揮下ニ在ル日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル軍隊ヲシテ 敵対行為ヲ直ニ終止シ其ノ武器ヲ措キ現位置ニ留リ 且左ニ指示セラレ又ハ聯合国最高司令官ニ依リ追テ指示セラルルコトアルベキ合衆国、中華民国、聯合王国及「ソヴィエ ト」社会主義共和国聯邦ノ名ニ於テ行動スル各指揮官ニ対シ 無条件降伏ヲ為サシムベキコトヲ命ズ」と念押しています。

 

  しかしながら大本営は、天皇のご聖断を受け8月18日には早くも『大陸命第一三八五号』を発令し、「詔勅煥発以後敵軍ノ勢力下ニ入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ俘虜ト認メス 速ニ隷下末端至ル迄軽挙ヲ戒メ 皇国将来ノ興隆ヲ念シ隠忍自重スヘキ旨ヲ徹底セシムヘシ」と、全軍に対して戦闘行為の全面停止を命じ、同22日に発せられた『大海令第五三号』によって海軍も、「大本営ノ企図ハ為シ得ル限リ速ニ我軍ノ武装ヲ自発的ニ解除シ以テ進駐シ来ル聯合国軍ト無用ノ紛争ヲ避ケ我ガ信義ヲ中外ニ宣明スルニ在リ」と厳命し、『ポツダム宣言』が求めた武装解除にいち早く着手。驚くことに僅か2週間余りで全軍の投降を完了しています (首都防空を担う厚木海軍飛行場に本部を置いていた小園安名 海軍大佐率いる第三○二海軍航空隊は除く)。

9月3日に発表される予定であった「日本國民ニ告グ」で始まるいわゆる『三布告』からも判るように連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は当初、直接軍政を想定していましたが天皇制を含む現存の統治機構を利用した間接統治方式へと直前になって方針転換しています (奄美群島以南の南西諸島地を除く)。

米国務、陸・海軍からなる占領政策の最高決定機関であった三省調整委員会 (SWNCC) によるポツダム宣言起草の初期段階において、ジョセフ・グルー元・駐日大使ら知日派が提起した「日本降伏の時が来るならば、天皇はそれをもたらす唯一の人間である」といった意見がご聖断の威力によって証明されたことで、GHQは天皇制を存続させることで占領政策を滞りなく進める方針を採ります。

また、アドルフ・ヒトラー総統の死に伴い国民社会主義ドイツ労働者党 (ナチス党) 政権が崩壊し、統治機能が失われたと連合国軍が判断し『ベルリン宣言』によって直接軍政が敷かれたドイツ国 (現・ドイツ連邦共和国) とは異なり、日本では天皇を頂点とする統治機構が敗戦後も辛うじて機能し、武装解除も完了していることから、GHQとしては国際法上も直接統治を行うに足る条件を満たすことが出来なくなったわけです。

 

ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は、日本が降伏文書に調印した1945年9月2日、ウィリアム・ハルゼー米第3艦隊司令長官に「今すぐ発艦せよ」と命じ、数百機にも及ぶ艦載機とB-29大型戦略爆撃機が東京湾上空を埋め尽くしました。

 

昭和天皇の戦争責任については様々な意見があります (1975年10月31日の記者会見における彼の原爆投下に対する発言が物議を醸しました)。しかしながら8月15日の終戦の詔勅によってもたらされた速やかな武装解除ならびに日本政府のGHQへの協力的な姿勢がなければ、ドイツ国と同じく連合国軍による直接軍政を招き、国土が南北に分断されていた可能性は極めて高かったと云えるでしょう。また、『三布告』が命じていたように (管理制限が解かれるまでは) 公用語が英語となり (布告第一号)、日本円は廃止され、B円と称される軍票が法定通貨となっていたことは間違いありません (布告第三号)。事実、B円は58年 (昭和33年) 9月まで連合国軍の占領下にあった沖縄県全域およびトカラ列島を含む鹿児島県奄美群島では唯一の法定通貨として流通とていました。

このように我が国は80年前、敗戦国として新たな一歩を踏み出しました。そのため45年6月26日に、戦勝国によって採択された『国際連合憲章 (The Charter of the United Nations)』の第53条によって、日本は未だに”敵国”と見做されています (詳細は5年前に綴ったブログ『軍隊とは何だろう? 何かしら? その②』 https://japanews.co.jp/concrete5/index.php/Masazumi-Yugari-Official-Blog/2020/2020-10/軍隊とは何だろう-何かしら-その② をご一読下さい)。俗に云う旧敵国条項ですが、この条文が修正・削除されない限り、日本の”戦後”は終わらない。

共和政ローマの政務官ガイウス・サルスティウスがその著書『ユグルタ戦記』で綴ったように「あらゆる戦争は起こすのは簡単だが、やめるのは極めて難しい。戦争の始めと終わりは、同じ人間の手中にあるわけではない。始めるのはどんな臆病者にもできるが、やめるのは勝利者がやめたいと思う時だけだ」。連合国が『ポツダム宣言』によって戦闘の終結を決定し、敗戦国の元首であった昭和天皇が「萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」としてこれを受諾する。2000年を経ても尚、人間の本質は何ひとつとして変わってはいません。