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「ワン・ダラー、ワン・ダラー!」

いたいけな幼児を抱いたボサボサ頭の女の子、地雷によって両足を失い、コロを付けた木箱に乗った少年、絵に描いたようなつぎはぎだらけのランニングシャツを着た年嵩の男の子。レ・ロイ通りを歩くと、瞬く間に10人ほどの子供たちに囲まれました。

「シッ、シッ、シッ!」

険しい目付きで子供たちを追い払い、『迷惑ですよねぇ〜』と云いたげな歪んだ笑みを寄越しながらココナッツジュースを勧めるアッパッパを着たおばちゃん。やがて、イライラが限界に達したのか、私服警官が任務を忘れて姿を現し、人払いをする。さすがは南国。官憲と云えども、どうにも締まりがない。

1988年乾季。ベトナム南部最大の都市サイゴンでは、こうした浮浪児たちの群れは見慣れた光景でした。「ワン・ダラー」と云えば、当時の実勢価格ではわずか122円ほど。それでも私は、子供たちに紙幣を手渡すことを拒み続けました。

 

  前年に初めて同国を訪れた際、私は一台のシクロ(三輪自転車のタクシー) に乗り数時間にわたり、市内の取材先を駆け回りました。気温30度を優に超える炎天下です。当初はガイドよろしく饒舌だった痩身の運ちゃんも、さすがに疲労困憊の様子が窺えます。「幾ら?」と尋ねると「ファイブ・ダラー」と、力なく応じましたが私は、「それでは申し訳ない」と思い、10ドル札を手渡しました。すると、彼の瞳は見る見るうちに生気を取り戻し、「Cơn bn、Cơn bn」(ありがとう、ありがとう)と何度も繰り返し、いつまでも見送ってくれたのでした。

 

  帰国後、半年ほど経ったある日のこと。私の元に一通の手紙が届きました。消印はベトナム。しかしながらロシア語の検印も捺されています。どこで検閲されたのか、手紙は長い旅を経て、漸く私の手元に届きました。開けてみると差出人は、あのシクロの運ちゃんでした。

  粗末な方眼紙には、代書屋に頼んだのでしょう。拙い英語の文字が数行並んでいました。

「私のシクロに乗ってくれてありがとうございました。お陰で妻と両親、2人の子供は食い繋ぐことが出来ました」

 

  それ以来、私はベトナムやカンプチア(現・カンボジア王国)、ビルマ(現・ミャンマー連邦共和国)といった経済的に困窮している国々を訪れる際には、必ずボールペンを何10本も持参するようになりました。「ワン・ダラー」と価格はほぼ同じです。しかしながら「1ドル」は、大人が汗水垂らし、一生懸命に働いて、ようやく手にすることの出来る金額です。子供たちが外国人にまとわりついただけで得られる報酬としてはあまりにも高過ぎる。ただ、ボールペンであれば彼ら自身が使えます。例え、それを彼らが転売したとしても、それはそれで彼らの労働の対価として許せる、と考えたからでした。

 

  そんな変わり者は、それまであまりいなかったのでしょう。ボールペンを手渡すと彼らは一瞬、呆然と私を見詰めていましたが、やがてキラキラと目を輝かせ、キャッキャキャッキャとはしゃぎながら地面に座り込み絵を描き始めました。「その色がいい」と交換する子供もいます。いつの間にか私も歩道の真ん中に座り込み、時を忘れて子供たちに、ドラえもんや鉄腕アトムの絵を描いていました。

 

 悲しいかな、人間のありとあらゆる営みは経済によって生み出され、突き動かされます(「繁栄」がゴールという意味ではありません)。戦争、平和も決して例外ではありません。貨幣価値というものは国によって、人によって異なります。金銭は、公益ともなれば凶器にもなり得る。そんな極めて単純な世の理を、若き日の私は 1枚の1ドル紙幣から学んだのでした。