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 国歌は、半永久的に変更されない、アンタッチャブルな存在だと思い込んでおられる方も多いようです。ところがどっこい、特に歌詞においては、様々な理由から改訂されるケースが少なくありません。オーストラリア連邦の国歌『進め 美しきオーストラリアよ』 (Advance Australia Fair)もそのひとつで、今年1月1日に歌詞の一部が変更されました。

 

同国では1984年4月19日に、国民投票によってこの親しみのある愛唱歌が国歌として選ばれ、制定されています (英国に統治されていた1788年から独立を挟んで1974年まで、オーストラリアは正式な国歌として英国の『女王陛下万歳』を国歌として採用していました)。

今回、修正が加えられたのは第1節の「若く、自由な我ら (We are young and free)」で、これが「ひとつで自由な我ら(We are one and free)」に変えられています。つまりたった1文字だけの修正です。しかしながら、この”young”の削除が、6万5000年以上もの歴史を持つ先住民(アボリジナル・ピープル)への敬意を表するためのものであったと聞けば、その重みもわかって頂けるでしょう。スコット・モリソン首相は昨年の大晦日に、「この変更によって、調和の精神が育まれることを願う」とも述べています。

 

オーストラリアは、1770年に英海軍の士官で海洋探検家でもあったジェームズ・クックによって”発見”されました。1788年2月7日に英政府は、ニューサウスウェルズを同国の直轄植民地とする、と一方的に宣しましたが、それよりも遙か以前からアボリジニはオーストラリア大陸に居住しており、当時の人口は百万人ほどだったとも云われています。

英政府は”Terra nullius (テラ・ヌリウス)”、つまりオーストラリアは「誰の物でもない土地」といった概念を持ち出し、他の植民地と同じく虐殺の限りを尽くし、入植者たちが持ち込んだ天然痘など伝染病の拡大とも相まって、アボリジニの人口は1920年の時点で7万人にまで減少したと伝えられています。

1991年になってポール・キーティング首相が「先住民和解のための会議」の設立を提言し、連邦成立100周年にあたる2000年までに和解政策を押し進めることを約します。また、翌年6月3日になって漸く、最高裁判所も”テラ・ヌリウス”の概念は誤りであったことを公式に認め、アボリジニの権利を盛り込んだ法改正が行われました。

 

先住民に対する差別の歴史に翻弄されたひとりがキャシー・フリーマン選手でした。21歳で出場した英連邦競技会で、彼女は400メートル走で優勝。観客から手渡されたアボリジニの民族旗とオーストラリア連邦の国旗を両手にウィニングランを行いました。彼女のこの行為に対してオーストラリア連邦の選手団長が、「オーストラリアの国旗だけを取って走るべきだった」と苦言を呈したことから、国を二分する議論が巻き起こります。

その後、アテネ、セビリアで開催された世界陸上競技選手権大会でも優勝を果たしたフリーマン選手は2000年、遂に”母国”オーストラリア連邦で開催されたオリンピック・シドニー大会を迎えます。彼女は聖火リレーの最終ランナーに選ばれ、アボリジニに伝わるブーメランの形を模したトーチを手に、オーストラリア連邦を代表する選手たちの”代表”として姿を現し、同大会の開会を宣しました(詳細は拙著『国旗・国歌・国民〜スタジアムの熱狂と沈黙』をご一読下さい)。

 

このように国歌、そして国旗は、時代の変化と共にその姿を変え、国家統一の”装置”として機能し、国民統合の象徴として愛され続けています。同大会の400メートル走でも見事金メダルを獲得した「自由民」という意味の姓を持つフリーマン選手は、今度は胸を張ってアボリジニの民族旗とオーストラリア連邦の国旗をしっかと両手に掲げ、ウィニングランを行い、大喝采を浴びました。

 

昨年11月、ラグビーの『Tri-Nations 2020』の対アルゼンチン共和国戦において、国際大会としては史上初めてアボリジニのウィラドゥリ語 (2009年に母語話者が消滅) によって歌われたオーストラリア連邦国歌『進め 美しきオーストラリアよ』。

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