20210609-1.jpg
 

 

どうにも解せません。ミャンマー連邦共和国の代表チームは現在、我が国で開催されているFIFAワールドカップ カタール大会 2次予選(グループF)に参加するため来日し、今月15日に予定されている対タジキスタン共和国戦を終えるまで国内に滞在しています。同チームの控え選手のひとりが、先月28日に行われた対日本代表戦において、国歌斉唱時に国軍の市民に対する武力弾圧に抗議の意を表す3本の指を立てて見せたことはこのブログでもお伝えしました。

 

問題はその後です。日本のマスメディアは、彼の名前と顔を公にしていました。この試合は生中継で放送されたため、彼の行動はすでに国家統治評議会(SAC)の知るところであることは云うまでもありません。また彼自身、覚悟の上で取材に応じたことも明らかでしょう。

しかしながら、マスメディアの一員として云わせて頂ければ、取材する立場としてこれは正しい判断だったのかということです。私は、彼が所属している国内クラブを特定し、数枚の写真も現地メディアを通じて入手していましたが、敢えて公開はしませんでした。なぜならば、「試合が終われば帰国する」と語る彼の身に、何が起こるかが容易に想像出来たからです。

もしも私が取材者の立場であり、同選手の名前と顔を掲載する前提で記事を書くとすれば、彼の声を届けると共に同国の現状をつぶさに伝え、彼が帰国するとどのような運命が待ち受けているかも併せて記述し、世論を喚起するスタイルを取ったことでしょう。彼に非人道的な処罰を与えれば、日本との関係に悪影響を与えかねないと国軍が配慮せざるを得ない記事または番組を少なくとも目指したはずです。逆に云えば、そうしなければ知名度の低い同選手をマスメディアが取り上げる意味はありません。

 

ところが某・全国紙は、彼がこのサインを掲げたことで彼の身に、彼の家族に今後、どのような運命が待ち受けているかについて、一行も書いてはいませんでした。例え運動部の記者であろうが、ミャンマーを取り巻く現状について幾ばくかの知識を持った上で取材に臨んでいるはずです。文字数が足らないと云うのであれば、写真を縮小するか落とすか。デスクに掛け合えばいいだけの話です。事は、国際サッカー連盟(FIFA)が厳しく戒めているフットボールへの政治介入といった基本原則に従いミャンマー・サッカー協会が同選手を代表チームから外し、謹慎処分を科す、といったレベルの話ではありません。彼、そして彼の家族、友人知人の命にかかわる問題です。昨今のマスメディアの感受性の低下、思慮の浅さは由々しき問題として私の目には映ります。

 

ちなみにFIFAは(国際オリンピック連盟も同じくですが)、それが例え民主化を求めるムーブメントであろうと、政治的な言動は厳罰の対象としています。事実、香港では2019年に犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを認める「逃亡犯条例」の改正案反対運動に端を発した大規模デモが都市機能を麻痺させ、同年11月に香港で開催されたFIFAワールドカップ 2次予選の対バーレーン王国戦では、中国の国歌『義勇軍行進曲』の演奏時にスタジアム全体がブーイングの嵐に包まれました。

逆に、観客からは地元のミュージシャンThomas dgx yhl(仮名)が作詞・作曲した『香港に栄光あれ(Glory to Hong Kong)』の大合唱が巻き起こりましたが、これに対してFIFAは、「国歌演奏時に混乱を生み『秩序と安全』にかかる規則に違反し、不適切なメッセージを発信した」として香港サッカー協会に対して罰金3万5000スイスフラン(約333万円)と警告の処分を下しています(なぜこうしたスポーツと政治の相克が生まれたかについては、拙著『国旗・国歌・国民〜スタジアムの熱狂と沈黙』をご一読下さい)。

 

 

日頃は「人権侵害」について厳しい論調を掲げていても、こうした”取るに足らない”小さな記事の扱いに国際感覚の希薄さが見え隠れします。この国のマスメディアにおいて、そもそも出稿数が少なかったミャンマー情勢を伝える記事はさらに激減しています。なぜか。先にも綴ったようにミャンマー情勢は、「アジアにおける紛争のひとつ」に過ぎないからです。表層をなぞるだけで、事の本質を理解していない。

再度、書きます。ミャンマーの市民的不服従運動(CDM)は、前近代的な軍事独裁政権といった政治形態に民主主義を求める丸腰の市民が引導を渡せるかどうかの乾坤一擲です。国軍による武力弾圧は、我々が享受している民主主義に対するあからさまな挑戦であり、ミャンマーの経験、CDMの成否が、今後の国際政治に転換期をもたらす可能性さえ秘めています。現在のミャンマー情勢を、こうしたアジア現代史における重要なエポックとして俯瞰で捉えなければ、事を見誤ることになります。

命を張ってフィールドに立つ者に対しては、尊敬の念を持って接するのが最低限の礼儀であり、それを怠れば、やがてオウンゴールとなって我が身に降りかかって来ることは、肝に銘じておくべきです。

 

このページのトピック