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   前・後編で綴ったように核兵器廃絶の流れは経済的、軍事的理由から最早、押し留めることは出来ません。これは間違いない。しかしながら、核兵器廃絶の実現に至るロードマップには幾つもの障害が待ち受けています。

 

  マスメディアは、核保有国が核兵器禁止条約(TPNW)を真摯に受け止め批准すべきだと盛んに書き立てます。核抑止論に固執し続ける日本政府の曖昧な態度を糾弾します。正論です。しかしながら、世の中それほど簡単に物事が進むわけではありません。現実問題として当面、核保有国のTPNWへの参画は望めないでしょう。

尤も、TPNWの成立に尽力したオーストリア共和国のように”核の傘”の下にありながらも一旦、戦乱に巻き込まれるや否や「中立」も有名無実となることを、身を以て知る見識の高い国もあります (スイス連邦やスウェーデン王国も、TPNWの第1回締結国会議へのオブザーバー参加を早々と表明しています)。また、非人道兵器廃絶の大きなうねりをいち早く感知し、TPNWの批准に踏み切る核保有国もやがて現れるでしょう(私は、フランス共和国がその先陣を切ると踏んでいます)。

 

  では、核兵器廃絶を拒む最大の障害とは何か? それは云うまでもなく核拡散防止条約(NPT)によって核兵器の保有が認められた”5ヶ国以外”の、核兵器を保有している、または核兵器開発を進めていると”想定”されている朝鮮民主主義人民共和国やイスラエル国、イラン・イスラム共和国、インド、パキスタン・イスラム共和国といった国々の処遇です。こうした国々が核兵器を放棄しない限り、米国を始めとする核保有大国は、いくら核兵器が今や無用の長物だとわかっていようが、経済的メリットがないと認識していようが廃絶に向けて舵を切るわけには行きません。

 

   我が国は、戦時における唯一の被爆国でありながらも、TPNWを批准していません。未だに形骸化した核抑止論を楯にTPNWから距離を置き続けています。これは外交面から云っても到底、賢明なスタンスとは云えません。

日本政府は事ある毎に「核兵器国と非核兵器国との間の橋渡し役」としての責務を果たす、と公言し続けて来ました。上記のような核を取り巻く国際情勢を鑑みれば、必ずしも悪手とは云い切れません。しかしながら最大の問題は、日本政府がこれまで、口では「核なき世界」を謳いながらも、何ら効果的な「橋渡し」を行っていない、実績を残していない、といった点に尽きます。これでは「日本は核廃絶に消極的だ」と見做されても反論のしようがありません。

「核軍縮の実質的な進展のための賢人会議」などを催し、各国の”有識者”を集めて提言を取りまとめるといったアプローチも行っては来ましたが、このような体裁の良い、エアコンの効いた室内で優雅に議論を交わすようなやり方は、日本でなくとも出来る。

 

はっきり云いましょう。我が国がすべきこと、被爆国・日本の政府にしか出来ないことは、「核兵器国と非核兵器国との間の橋渡し役」などといった格好の良い役回りではなく、核兵器を保有している、または核兵器開発を進めていると”想定”される国々と胸襟を開いて話し合い、信頼関係を築き、核兵器を放棄するよう地道に説得することです。汗を流すとは、そういうことです。

彼らは核保有国の、経済・軍事力を背景にした高みに立った物云いになど耳を傾けようとはしません。また、核保有国も”アウトロー”または”テロリスト”のレッテルが貼られた彼らと対等な立場で話し合うつもりなどないでしょう。しかしながら実際に核兵器によって凄惨な被害を蒙った我が国の話は聞くはずです。被爆者の体験は是非とも知りたいと思っているはずです。これこそが核兵器廃絶に向けて、日本という国のみが世界に貢献出来る、平和の礎となれる極めて重要な役割であり、被爆国としての”責務”なのです。

 

なぜこのような単純な方策に誰も気づかないのか、提起しないのか。私には不思議でなりません。もちろん容易なことではありません。火中の栗を拾う行為にもなり兼ねない。誰もやりたがらない仕事です。それでも、世界は尊敬の念を持って日本の決意を讃えるでしょう。

政治家の皆さん、好い加減、格好をつけるのは止めませんか。観念論はもうたくさん。行動あるのみです。口先だけで行動が伴わない人間を誰が信じると云うのでしょうか。まずは、核保有国の”手先”だと誤解されぬように、中立の立場を貫くべくTPNWのオブザーバーとして手を挙げることが肝要です。

 

彼らも私たちと同じ人間です。万が一にも使用すれば、報復攻撃により数秒後には自国民を滅亡の危機に追いやる核兵器など、本気で用いたいと考えている者など唯のひとりもいない。丸腰で彼らの懐に入り、真摯な態度で接すれば、必ずや気脈は通じます。問題は、我々日本人に核兵器に引導を渡す、世界史を書き替える、それだけの覚悟と胆力があるかどうか、ということです。