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「ウイメンズ・バンク」の創業メンバーと経営陣たち。

 

19世紀米国の女権運動において指導的役割を担った社会活動家エリザベス・C・スタントン女史を嚆矢として、同国の女性たちは常に世界のフェミニズムを牽引して来ました。そんな米国においてさえ、驚くことに女性が自らの名義で銀行口座を、男性の裏書きなくして開設出来るようになったのは1974年 (昭和49年)。ほんの半世紀前のことでした。

20年 (大正9年) に合衆国憲法修正19条が発効したことにより女性が参政権を獲得し、60年代にはフェミニズムが台頭したにも関わらず (63年に平等賃金法 Equal Pay Act 制定)、金融サービス業界は依然としてワスプ (WASP) の男性たちに牛耳られていました。家計を切り盛りする”専業主婦”に対するセールス活動は活発化しましたが、女性に”主導権”を握らせることはついぞありませんでした。

独身女性は、結婚によって就労継続が期待出来ないと見做され、与信基準は高く設定されていた時代です。銀行融資が得られなければ新規事業を起ち上げることは難しい。口では男女平等を謳いながら、重い鎖で手足を縛り続ける。そうした不条理な男性優位社会に闘いを挑んだのが米コロラド州の8人の女性たちでした。

 

74年 (昭和49年) 10月28日に消費者信用機会均等法 (ECOA: The Equal Credit Opportunity Act) が可決されたことで、性別や人種、年齢、宗教、結婚歴に関係なく、誰でも融資が得られる権利が保障され、金融機関には公平な与信基準を適用する義務が課せられました。

ECOAは、貸し手裁量による金融排除から女性のみならず多様なライフスタイルを営む国民を守る画期的な法律でしたが、多くの女性たちはその存在さえ知りませんでした。

 

1978年7月14日にデンバーで開業した「ウイメンズ・バンク」。

 

こうした現状に風穴を空けたのが米ダイエット食品会社ウェイト・ウォッチャーズ社のフランチャイズ戦略で成功を収めたキャロル・グリーン氏と、全米女性同盟 (NOW) のロビイストとして活動していたボニー・アンドリコポロス氏でした。両氏は75年 (昭和50年) 11月16日にウイメンズ・アソシエーション (WA) を結成し、ECOAの啓蒙と女性に対する金融サービスの拡充・徹底を訴えました。

それでも頑迷な金融界を動かすことは出来ず、WAは満を持して元・銀行頭取であったB・ラレー・オルリアン氏を迎え入れ、77年 (昭和52年) には米通貨監督庁 (OCC) から営業許可を取得。8人の創業メンバーが1,000ドルずつ持ち寄り、翌78年 (昭和53年) 7月14日に州都デンバーの目抜き通りに全米で初めて女性の女性による女性のための銀行「ウイメンズ・バンク」を自ら設立しました (法的には首都ワシントン.D.C. に続いて2行目)。

 

山が動いた。開行当日には女性たちが長蛇の列を作り、初日だけでも100万ドル (現在の貨幣価値で約15億円) を超える預金が集まったと云います。いくら優秀であっても男性を凌ぐ昇給、昇進は望めなかったキャリア・ウーマンたち、卓越したアイデアがあってもビジネスを起ち上げられなかった女性起業家たち。そして夫に扶養される立場に甘んじていた専業主婦たちは、持参した現金に”夢”を乗せ、自らの名義で「ウイメンズ・バンク」に口座を開きました。

山が動いた。女性の社会的地位を一転させた改革の波は、生き馬の目を抜く大都市ではなく、雄大なロッキー山脈に抱かれた一地方都市から生まれました。

 

2020年 (令和2年) に米大手企業経営コンサルティング会社マッケンゼー・アンド・カンパニーが行った調査によれば、米国の全個人金融資産の内、10.9兆ドル (約1,600兆円) は女性によって管理されており、その額はベビーブーマー、いわゆる団塊の世代の男性の多くが他界する30年までには、相続などにより30兆ドル (約4,500兆円) にまで達すると予測されています。半世紀を経て米国のミクロ経済は、女性の”承認”なくして成り立たなっています。

「ウイメンズ・バンク」の預金総額は2,000万ドル (約30億円) にまで増え (82年)、94年には投資家グループに売却され、現在は「コロラド・ビジネス・バンク」へと名称を変えましたが、8人の女性たちが植えた”希望”の種は見事に芽吹き、今や米国経済を下支えしています。