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 私の学問と云うは、この有益なる国家に居ながら、いたずらに兎日を送らず、

 婦人の責任だけは学ばざるを得ずと云うにありて、必竟学問なし、

 婦人嫁入り第一の道具を調べんことを望むものなり。

 

 しからばその学文とは何ぞや。曰く、経済学及修身学これなり。たとえ、

 己れは終身夫の保護を受けんとするも、無常、夫の世を逝ることあれば、

 その時修身の学をもって身を守り、経済の学をもって生活を計らざるべからず。

 これ嫁入り第一の道具たる所以なり。

 

 箪笥長持のごとき道具は盗難の患いあり、又は火災の煩い等ありて、

 とうてい心を泰山の安きに置く能わざるなり。しかりと云えども、世上、

 婦人を育て学ばしむることを知らざる者は、家に婢僕のあるも、

 娘のやや成長するに至るとすぐに婢僕を去らしめ、曰く、女子は他人の家に

 嫁する能く洒掃するをもって必要とす。よって、これを仕慣うべしとて、

 娘をして婢僕に代え、使役する者あり。

 実にこれらは子を養う道を知らざる親と云うべきのみ。

 

 

ジェンダーとは、性差によって定められた社会的または文化的関係性や男女間の相互関係を意味します。それぞれの社会において構築されたこうした社会的属性や役割、機会、関係性を変革する動きが我が国でも活発化していますが、意外なことにもその原点となった人物についてはあまり知られていません。

ジェンダーレスを掲げる方々でさえ、その多くは中島湘烟 (岸田俊子) の名を知らないのではないでしょうか。”三従の教え”が社会全般に及んでいた明治初期、男女平等を訴え、官憲に捕らえられながらも毅然とした態度で女権拡張への道を切り拓いたのが俊才として名を馳せた彼女でした(以下は、拙著『日本人の誇りを呼び覚ます 魂のスピーチ』からの要約となります)。

 

中島湘烟 (岸田俊子) は、1861年(万延元年)に京都の呉服商小松屋の長女として生まれています。下京第十五番組小学校に入学した彼女は、藩校時代の”教科書”であった『四書五経』はもちろんのこと、頼山陽の『日本外史』やジョン・スチュアート・ミルの『自由之理』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』といった明治という新たな時代の思想形成に多大な影響を及ぼした書物を片っ端から読破し、71年には「俊秀生」として表彰されるほどでした。そのため当時の槇村正直 京都府権大参事(現在の副知事に相当)が「お前の名には俊秀の俊の字こそふさわしい」と利発な彼女を褒めたことから、彼女は「俊子」と名乗るようになります (ちなみに”湘烟”は雅号)。

「上弟子(成績優秀者)」となり、官費で中学へ進んだ16歳の彼女の元には、宮内省から文事御用掛として出仕するようにとの通達が届き、平民出身でありながらも昭憲皇太后に『孟子』を進講しています(推挙したのは正直と山岡鉄舟)。反骨精神が旺盛であった彼女が、宮中でしたためた漢詩にはこのような言葉が綴られていました。

 

  請看明治世  請う看よ 明治の世を

  不譲堯舜仁  堯舜(古代中国の聖王)の仁に譲らず

  怪此堯舜政  怪しむ 此の堯舜の政

  未出堯舜民  未だ堯舜の民を出さざるを  (後半部分のみ引用)

 

   やがて揮毫にも類い希なる才があった湘烟は、全国各地を旅する中で運命の地、土佐と巡り会います。当時の土佐は、立志会の本拠地として自由民権運動のいわばダイナモとして機能しており、連日のように演説会が開かれていました。そこに颯爽と現れたのが20歳そこそこの湘烟でした。

   82年1月に土佐をあとにした湘烟は、日本立憲政党が結成されたばかりの大阪へ居を移し、同党の党首であった中島信行に請われて同年4月1日、道頓堀の朝日屋で初めて演壇に立ちます。演題は『婦女の道』。その後の1年半、彼女は日本初の女性弁士として精力的に全国を行脚し、演説を通して女性の権利と生き方を説いて廻りました。冒頭に記したのは、彼女の名演説として知られる『箱入娘』からの抜粋です(大津警察署臨監警官により1883年11月12日に大津軽罪裁判所にて朗読された大津四宮町劇場に於ける学術演説の「傍聴筆記」より)。

 

  翌年10月12日、滋賀県・大津でこの『函入娘』を弁じた彼女は、「学術演説と偽って政談におよびし件、官吏侮辱の件にて拘引す」といった罪状により逮捕され、有罪判決を言い渡されます。

しかしながら理不尽な公権力の横暴に屈する湘烟ではありません。翌年から、日本女性の手による初めての男女平等論である「同胞姉妹に告ぐ」を自由党の機関誌『自由の燈』に発表し、敢然と闘いを挑みました。我が国の女権拡張運動の夜明けは彼女の存在なくして語れません。

 

後に湘烟は、幕末に脱藩し坂本龍馬が率いた海援隊に加わった後、会津倒討伐隊の一員として最前線で闘った信行と、当時としては珍しい”自由結婚”で結ばれています。しかしながらイタリア公使となった信行の赴任地ローマで共に肺結核を患い、1910年5月に信行の死を看取った2年後に、彼女も静かにこの世を去りました。

辞世の句は、「藪入に鳥渡そこまで独旅行」。かつて、女侠として世直しに奔走した湘烟は、最期のその刻まで、粋人を貫き通したのでした。

 

フェリス和英女学校(現・フェリス女学院大学) の教員時代に撮られた写真(前列中央)。