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  「老害」なる言葉が、どうにも気に入りません。差別云々以前に、品がない。そもそもは、松本清張氏の名作『迷走地図』にも「老害よ、即刻に去れ」といった一文があるように、権力者の高齢化による弊害を批判した文言だったものが、いつの間にやら高齢者を邪魔者扱いする言葉に成り下がってしまいました。

 

   新聞はかつて、この手の新語を用いるにあたり慎重を期していました。それが今では、さも「私たちも時代に遅れを取ってはいませんよ♪」とでも云いたげに、ネットスラングを安易に用いるようになってしまった (その一方で、今や絶望的なまでに死語化している「原宿の若者たちが”フィーバー”しています!」といった文言を、何の衒いもなく使い続けるアンバランスさ)。語彙については、あくまでも紙媒体が”木鐸”となるべきであり、ネットへの不見識な迎合は傍目から見ても、相当に”イタい”ものがあります。

 

   高齢者を敬う、ということは、突き詰めれば”時間”に対する畏敬の念です。1秒の積み重ねが 1分となり、1時間となり、やがて 1月、1年、そして 100年になる。自戒を込めて云えば、私たちがこれまで、どれだけ 1秒を大切にして生きて来たか。その度合いによって時間の重みは変わります。時間は、この世に生を受けてから死出の旅に赴くまで、すべての人々に平等に与えられてはいますが、その”奥行き”は各人の生き様によって異なります。

若いからと云って、必ずしも時間を軽んじているとは限らない。大切なひとと過ごした時間が短ければ、それだけ”時間”の大切さも身を以て知っています。逆に、無為に時間を過ごして来た者は、幾つになっても人生を浪費する。1秒の重みを知る者は、その体現者である高齢者を慕い、敬うでしょう。うまく出来たもので、高齢者を蔑んでいた者は、自らが年老いた時に周囲から「老害」と蔑まれるようになる。

 

新型コロナウイルス禍の影響により、公私ともにライフサイクルが半ば強制的にスローダウンさせられたことで、多くの人々が”1秒の大切さ”、というよりも”1秒の存在”そのものに気づかされたのではないでしょうか。悠久なる時がダイナミックに流れる広大な宇宙空間において、ひと一人の人生など、瞬きするほどの刹那に過ぎません。だからこそ、神に与えられた 1秒を大切に過ごしたい。東日本大震災から 10年の節目を目前に控え、改めて”時間”の意味を噛み締めたい。メメント・モリ(Memento mori)、死を想う。

 

  ここにひとつのデュエットがあります。先にご紹介したキューバ共和国の歌姫オマーラ・ポルトゥオンドさんと、同じくブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのボーカリストとして活躍したイブライム・フェレールさんとの共演です。このレコーディングは1927年にキューバ東部のサンティアゴ・デ・クーバで生まれたフェレールさんのおそらく最期のパフォーマンス(享年78歳)。現在 91歳のポルトゥオンドさんは当時 75歳前後であったものと思われます。曲は、キューバの作曲家オスバルト・ファレスが1947年に作曲し、世界的大ヒットとなった『キサス・キサス・キサス』(Quizás, quizás, quizás)。

 

  米国の”裏庭”として栄華を極め、1950年代に巻き起こったキューバ革命で社会主義国家へと変貌を遂げたキューバ (作曲家のファレスは1962年に米国へ亡命し、再び故郷の地を踏むことはありませんでした)。激動の時代を乗り越えたふたりのいぶし銀のような歌声には、そんじょそこらの歌い手には醸し出せない味わいと深み、そして陰影があります。

「多分ね」(Quizás)と女は嘯く。明日のことなど誰にもわかりはしない。「僕たちは幸せになれるだろうか?」、「多分ね」。そう、この 1秒が幸せならば、次の 1秒も幸せ…、かも知れない、多分。