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 2011年3月11日14時46分、東京・世田谷区の自宅にいた私はあの時、咄嗟に机の下に身を隠しました。それまで経験したことがなかった長く、激しい揺れに思わず「直下型地震か」と、たじろいだほどでした。

卓上にあったマグカップは倒れ、書棚からは何冊もの本が崩れ落ちて来ました。漸く振動が収まり、ニュース速報によって震源域を知り、やがて津波情報を耳にすることとなります。

 

友人である歌手の保科有里さんが、当時の想いを切々とフェイスブックに綴っています。私の、その後の10年とも重なるため、(ご本人の承諾を得た上で) ここに全文をご紹介させて頂きます。

 

 

  あれから10年経つんですね。

  その時、東京にいましたが

  これまでに無い揺れでしばらくは、

  船酔いみたいな感覚でした。

  そんな事より、テレビでは

  東北のあり得ない現状が映し出されて、

  声も出ませんでした。

  映画の映像としか思えませんでした。

  その2か月後、前から予定していたライブを都内でしました。

  そこにお客様がお友達(女性)を連れて来られ、

  ライブが終わった後、そのお連れのかたから

  「私は岩手の出身なんですが、震災のあと、一度も帰れてないのです、

  良かったら、一緒に行って、避難所で歌ってもらえませんか!」

  と言われたんです。

  彼女が、避難所を手配してくれ、6月に、

  大槌町、大船渡市、釜石市と3か所に行きました。

  ひどい信じられない惨状でした。

  私ごときの歌で良いのか…

  避難所に近づく毎にどんどん不安になりました。

  ただただ歌いました。

  最後の『さくらの花よ泣きなさい』では、

  皆さん涙され、ある女性のかたから

  「震災以来初めて泣きました」

  え?泣かれてなかったのですか?

  驚きました。

  泣いてはいけない!泣いていてはいけない!

  と、日本人の耐えるという心がそうさせたのでしょうね。

  私は思わず「すいません」と謝りました。

  その女性は「いえ、泣けたことでまた頑張れます」

  と言って下さったんですね。

  泣けないほどつらい…

  そんな苦しみを

  その時初めて知りました。

  帰り際、なぜか私に「頑張ってね、また来てね!」って。

  皆さん、なんて優しいのでしょう。

  涙が止まりませんでした。

 

  それから3年後、

  松方弘樹さんのお芝居&コンサートで

  仙台に行った時に知り合ったのが

  新聞記事の彼女奥田江利子さん。

  私の『さくらの花よ泣きなさい』を聴いて

  CDを買いに来てくれました。

  仲良くなって7年。

  石巻と東京と離れていますが、

  今や姉妹のような仲になりました。

  ご両親、息子さん、娘さんが

  天国に行かれました。

  でも出会った時から彼女は、

  いつも笑顔でつらい顔を一度も見せたことはありませんでした。

  震災の話も聞けば答えてくれたし、

  私に気を遣わせないようにしてくれてたのだと思います。

  震災後3年間は、心が止まった状態だったそうです。

  無感動…

  でも、元々明るい前向きな彼女なので、

  お子さん達が心配しないように、力を振り絞って生きてきました。

  私との出会いも、子供さん達が出会わせてくれたのでは!って

  思うような偶然がたくさんありました。

  私は出会ってから、彼女に、彼女の生き方にたくさん励まされました。

  いろんな自分のつらいことも、

  こんなことは彼女の苦しみに比べたら大したことは無いと。

  私には何も出来ませんが、彼女と楽しい時を少しでも過ごせたら。

  これは私が望む事ですけどね。

 

  自然界には人間は、弱いです。

  犠牲者は弱者ばかり。

  歯がゆさや悔しさもあります。

  また人間は、ほんとにおろかな生き物だとも思っています。

  地球は人間だけのものではないのですよね。

  願わくば、こんな災害はこの先も

  有りませんように、祈る事しかできません。

  人は、人を思いながら生きることが生きる甲斐

  「いきがい」なのかもしれません。

  合掌m(_ _)m

 

共同通信の配信記事で取り上げられた奥田江利子さん。

 

大手マスメディアに属していない私は、すぐに現地へ赴くことは出来ませんでした。その後、宮城県・石巻、福島県・東相馬に足を踏み入れ、被災地の惨状を目の当たりにし、被災者の慟哭を耳にします。

奥田江利子さんと石巻で出会ったのも、その時でした。スッと背筋を伸ばした彼女の姿に、逆に私が驚かされ、穏やかな笑顔に癒やされ、魅せられました。「強い女性」というのが私の第一印象でした。

ところが石巻から仙台まで、車で送って下さることとなり、その間、1時間余りにわたり彼女はハンドルを握ったまま、まるで堰を切ったかのように止めどなく、初対面である私に凄惨極まりない体験談を赤裸々に話して下さいました。被災地では、皆が被災者です。誰もが誰かを失っている。誰にも話せず、感情を露わにすることも出来ず、唯々、耐えるしかなかった。それから、江利子さんとの親交が始まりました。

そして、被災地で喧伝され始めた「復興」の二文字に疑念、いや寧ろ嫌悪感を抱いた私は、答えの在処を探し求めて、被爆から不死鳥の如く甦った広島を目指したのでした。

 

10年、3,650日は果たして長いのか、短いのか。あの日が、またやって来ます。

 

『津軽海峡・冬景色』(歌 石川さゆり)や『つぐない』、『愛人』(歌 テレサ・テン)などで知られる作曲家三木たかしが保科有里さんのために書き下ろした名曲『さくらの花よ 泣きなさい』(作詞 荒木とよひさ)。