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人としての尊厳とは何でしょう。数日前、ミャンマー連邦共和国のヤンゴンに住むひとりの女性が、フェイスブックに自らの顔写真を投稿していました。民主化を求める抗議デモに参加した彼女は治安部隊に捕らえられ、苛酷なまでの暴行を受けました。漸く釈放された彼女は、しかしながら沈黙を守る道は選びませんでした。勇気を振り絞り、腫れ上がったアザだらけの顔写真をアップし、「(国軍は) 私たちを怖がらせようとしているが、私たちは怯まない。私たちの世代で、独裁政権は終わらせなければならない」と、民主化のシンボルである三本の指を立てて見せました。

まだ20代前半の女性です。醜く歪んだ顔を晒すだけでも、どれほど辛かったことでしょう。反骨精神を公にすることで再び、逮捕される可能性もある。それでも彼女は、「美しさとは、見た目ではない」と、切々と訴えていました。

 

人としての尊厳とは何でしょう。広島にも13歳で被爆し、決して癒やされることのない深い疵を心に負った、ひとりの女性がいました。サーロー節子さん。私立広島女学院高等女学校(現・広島女学院中学高等学校) 2年であった彼女は1945年8月6日、学徒動員に駆り出されていた爆心地から1.8キロ離れた帝国陸軍第二総軍司令部で被爆しました。瓦礫に埋まりながらも一命を取り留めたサーローさんでしたが、苦楽を共にしたほとんどのクラスメートたちは、帰らぬひととなりました。

 

乙女たちの歌声も、届くことはなかった。爆心地から約一キロの雑魚場町に動員されていた広島女学院の十二歳から十三歳の生徒たち三五一名の内、当日当番にあたっていた約半数名と教職員十二名のいのちのほとんどが、なすすべもなく一瞬にして散華した。

  皮膚がずるりと剝け、鮮血に赤く染まった肉が露わとなり、幾つかの傷口からは黄緑色の血膿を流し続けた数学教師の米原睦子は、それでも残された力を振り絞り、辛うじて立ち上がれた数名の少女たちを窪地の水たまりに集め、震えるからだを寄せ合いながら迫り来る猛火を凌いだ。やがて、礼拝で歌い慣れた賛美歌を、皆で声を合わせて歌い始める。

 第一節、第二節・・・。やがてひとり、ふたり。またひとりの声が途絶えてゆく。ようやく長い夜が明けると、

「歩けるひとは日赤病院へ参りましょう。歩けないひとは先生が後で連れに来てあげますから」と睦子は気丈にも生徒たちを励まし、三〇〇メートル先の広島赤十字病院を目指した。たった三〇〇メートルの道程が、果てしなく拡がる灼熱砂漠のように感じられたことだろう。

(拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』より抜粋)。

 

サーロー節子さんの壮絶な半生を追ったドキュメンタリー映画『ヒロシマへの誓い −サーロー節子とともにー』(監督 スーザン・ストリックラー)を今週、東京・渋谷のユーロスペースで拝見しました。サーローさんとは、約1年半振りの”再会”となります。物心がつく前から家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いている関西学院大学の元・学長 武田建さんの兵庫県・西宮市のご自宅で晩餐を共にさせて頂いたのは一昨年11月。核兵器廃絶を60年以上にもわたり訴え続けて来られた彼女は、映画の中でも「同情(Sympathy)は求めていません。人々に行動(Commitment & Action)して欲しい。そのために私は語り続けるんです」と、仰っていましたが、お目にかかった際にも、被爆国でありながらも核兵器禁止条約(TPNW)を批准しない日本政府に対する怒りを露わにされていました。

 

この夜は、谷本清牧師のお嬢様である近藤紘子さんともご一緒させて頂きました。

 

この作品は、サーローさんの生い立ちから被爆を経て、世界各国で被爆体験を語り続け、TPNW発効の原動力ともなった彼女の生き様を真摯に辿っています。中でも圧倒されるのはサーローさんの心に染み渡る名スピーチの数々です。亡き夫であり”同志”でもあったジムさんの推敲の賜物でもあったのでしょう。言葉のセレクト、スト−リー・テリング、そして聴く者を捉えて放さない語り口。この類い希なるオーラはどこから来るのでしょうか。

お目にかかった際にも、誰であろうと相手の話には真剣に耳を傾ける姿勢には感銘を受けましたが、この映画を観て、その一端を垣間見たような気がしました。そこには青春期の屈託のない笑顔がありました。誹謗中傷にも屈することなく、凛として自らの言葉で語る姿がありました。そして多様な意見をも受け入れる包容力。サーローさんは、人類史上最も非人道的な体験を経ても尚、人間の持つ”善”を頑なに信じ、愛しておられるのではないか。そこにはまた、非業の死を遂げた級友たちの”代弁者”たろうとする確固たる信念がある。褒められたいわけではない、讃えられたいわけでもない。ただ、”真実”を伝えたい。それこそが彼女の言動の源なのではないかと。

 

 

2017年、ノーベル平和賞が国際NGO核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に授与され、ノルウェー王国のオスロ市庁舎で12月10日に行われた授賞式で登壇したサーローさんは、

今日、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしいと思います。雲霞のような二十数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう」と、静かに説き、

「私は13歳の時、くすぶる瓦礫の中に閉じ込められても、頑張り続けました。光に向かって進み続けました。そして生き残りました。いま私たちにとって、核禁止条約が光です。この会場にいる皆さんに、世界中で聞いている皆さんに、広島の倒壊した建物の中で耳にした呼び掛けの言葉を繰り返します。『諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かって這って行くんだ』」と、力強く語りかけました。

 

人としての尊厳とは何でしょう。人の尊厳とは、義に生きること。そして愛に生きること。サーローさんと接する機会を得たことで、私は何の衒いもなくそう思えるようになりました。

「光を!」(Mehr Licht!)。詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは臨終に際して、そう呟いたと云われています。私たちは光を必要としています。そう、恒久平和の実現に向かって這って行く光を。

 

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