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   昨今、「可視化」なる文言をやたらと耳にする、目にする機会が増えました。”知識人”と称される方々が得意げに用いている「あれ」です(柔らかく云えば「見える化」です)。要は、現代社会において複雑化した膨大なファクター(ビッグデータ)を整理整頓し、主に数字または図式に置き換えることで”明らかにする”ということなのですが、へそ曲がりな私などには、どうにも胡散臭く感じられて仕方がない。というか、気に入らない。

 

   何のことはない、ひと昔前であればタバコのパッケージを横に置いてサイズを示す「あれ」です。詰まるところ、人工知能(AI)が急速に進化したため、最新の”おもちゃ”を使って”計算遊び”をしているに過ぎない。日頃、メディア・リテラシーの無さを嘆いている輩に限って「可視化」なる文言を好んで用いているわけですが、そもそも、どこぞの誰かにわざわざ「可視化」して貰わなければ事の本質もわからないのかと。

   端的に云えば、(ご当人が認識しているか否かはさて置き) 想像力の欠如を容認しているに過ぎません。AIを搭載したコンピューター将棋と対戦し、「まいりました」と云っているようなものです。私には、不寛容な時代特有の「正義」の押し売り、「右」か「左」か、「1」か「0」かの線引きを迫る同調圧力、曖昧さを許さない潔癖さを象徴する”流行言葉”にしか映りません。「あなたの能力を可視化します」って、全く以て余計なお世話です。とにかく気色が悪い。

 

   一定の「可視化」は必要でしょう。しかしながら、数値化されることで明らかとなる事象もあれば、数字のマジックに陥ることも少なくありません。「可視化」とは、端的に云えば情報の偏差値化です。ノイズを削ぎ落として最大公約数を「可視化」する。グレーゾーンは、グラデーションでしか表されません。

データ重視の真面目人間が陥り易い落とし穴ですが、今の時代、個人で扱えるデータ容量には限界がある。そのためAIに解析をお願いすることになるわけですが、一旦、手をつけると圧倒的な情報処理能力を前にAIには頭が上がらなくなってしまう。AIそのものを”採点”出来なくなってしまいます。

 

取材もそうですが、学術研究も同じくで、手間暇かけて情報収集を行い、自ら精査するからこそ、データの善し悪しを自己判断出来るわけで、AIに任せっ切りでは「結果」は得られるものの、そこから派生する(実は最も大切な) 独自の「発想」は生まれ得ません。まずもって「知る」と「理解する」とはまったくの別物です。「知識」と「知恵」の違い、と云っても良いでしょう。コンピューターの「回答」のみを信奉していたのでは、人類の「進化」は望めない。

仄かにアカデミックな香り漂う「可視化」なる文言を好んで使っておられるそこのあなた、教養のほどが知れますよ。